そろそろあのいまいましいスギ花粉が飛ぶ季節だ。(その後ヒノキもあるが) 子供のころは何も反応しなかったが、ここ数年来いつも悩まされる。 高度成長期の見境のない植樹により浮遊量が増えたのが、主な要因だそうだが 抵抗できる許容量を超えた人も多いのではないか。 人並みに世間で効用があるといわれるヨーグルト、てん茶などいろいろ試して見た。 が、どれも効いたか効かないか分からず症状に変化がなかったような気がする。 本当にひどい時は吐いたこともあった。春先はかかりつけの医者で薬をもらうようにして いる。(ステロイド系は副作用が怖いのでもらわないようにしている。) 東大の著名な学者が言っていたそうだが、医者が正確に患者の病気を判定できるのは 生涯の診断数のうちごく数割でかなり低いそうだ。 ということはかなりの誤診もある。 それもそうだろう。 患者からの聴診、器材といった外からの判断では人の内面に 起こってことを窺い知るに限界があるだろう。 もちろん、論理だって正確に分かる こともあるだろうが。 自分は疑い深いというか慎重な面があるので、ちょっとした事以外の不調で医者にかかるときは、必ず大きな病院で3つぐらい診断を受けるようにしている。 大きな病院は患者数に比例して診断数が多くより正確な判断ができることに疑いの念は ないと思われるが、医者も人なので各人各様に見識が異なると思う。 (実体験に子供のころ腰から下に激痛があったときこと。近くの街医者に行くとレントゲンで見ても異常はないし一時的に痛めただけという。我慢できないので離れた大手の医者 に行くと同じような写真を見て明日から入院しなさいという。 所詮、人の判断とはこん なものだ。) 最後に自分を守るのは自分だ。専門的な判断は依存するとしてもそれを評価するのは あくまで本人の責任だ。 疑い深いとは書いたが、何でも物事を鵜呑みにせず冷静に自己責任で判断することを本意 としている。(判断というのは他人の話を参考にする、調べるすなわち広く情報収集した上で自己決定することだ。) 薬は物心ついたときから、医者からの処方有無に関わらず極力飲まないようにしている。 抗生物質は体内に蓄積されるし、副作用がないともが限らない。その上、人の自然治癒力の障害になることもある。 若かりし日はそれでよかったが、年をとるとそう入ってられない。 不測の事態とならないよう、最近はできるだけ飲むように心がけている。 (以前は薬の本で何か調べることもあった。最近は、便利になり医者にしても病気にしても薬にしても簡単にネットで調べられるので助かる。) 抵抗力は若いころにつけないといけないと思い、心身を鍛えることがあった。 関係ないが猛暑の日などエアコンを最低温度まで効かせて布団を掛けず、裸で寝ても なんともなっかた。冬場にはシャツ一枚で毛布などは使わず過ごしていた。 (悲しいかな今現在そうはいかない。) 子供のことは分からないが小さいころからできるだけ薄着、裸で居させると外の環境に対して抵抗力が増すと思う。 花粉症の話に戻ろう。 やはり一番の防御策は「君子危うきに近寄らず」である。 最近流行の機密性の高い マスクはなかなか重宝する。 それでも体に付着した微粒子に対しては完全には防げない。 別の方法がある。花粉のある環境に居ないことだ。一見非現実的で無茶な話だがある。 幸か不幸か数年来、花粉飛散の時期に台湾を往来していた。正確に調べたわけではないが 原因となる花粉自体がない?少ない。 仕事で現地に出かけるとぴたっと症状がなくなる。ビザの都合で2、3日一時帰国すると すぐ症状が再発する。また行くとなくなる。 よってこの時期、国内ではなく台湾にいたいと思うことがある。 それにしてもつい春先は雨を期待してしまう。 |
台湾のちょっとした街にいくと、いたる所で金の装飾品を扱った個人商店を見かける。 道路沿いから見るとまるで欧州貴族の部屋のような眩さだ。 最近は少なくなったが首、腕に身につけてる男性をよく見かけたものだ。 疑問に思ったので、雑談ついでに通訳に聞いたことがある。 台湾は近年、中国共産派との内戦に敗北した蒋介石が先住民(多くの部族)がいた島に 落ち延びたのが始まりだ。 この後、日本、中国による植民地状態があり現在へと至っているが、統治国の 一方的な都合で、ある日突然自分の財産(自国通貨、紙幣)が紙くず化したことがあった。 この苦い経験があり物すなわち普遍的に信用価値のある「金」を財産として持つ習慣に なったそうだ。 また中国古来からの装飾品である「玉」(ぎょく、翡翠)を身に着けている。(まれに水晶も。これらの店も比較的見かける。 玉は金よりも高価) 玉は中国の信仰的要素が強く護符としても用いられてきたものだ。 感化されやすい性分もあって、一時期、お手ごろな水晶に凝っていた。(金は高価だし、 良質の玉は驚くほど高い。手も足も声も出ない。) 仕事後に滞在先周辺の街、休日などは台北に足を運んだりして様々なものを見て廻っていた。 (なお中国系はどこも夜が深まるにつれ賑やかさを増す。) 水晶といっても実に色んなものがある。 現地語(北京語ちなみに台湾での中国語の標準語、別途自国語である台湾語があるがこちらはハングルのようで未だに分からない)がまだ、ろくに読めなかったが水晶の本を2,3冊買って読んでいた。 ここで漢字についてだが難解さ(オリジナル)順に台湾、日本、中国となる。これは 国策として広く識字率あげるための現実の結果だ。日本語はまだ古字の原型をとどめているが中国の簡体字などは象形文字のようで何がなんだか分からないぐらい簡略化されている。 一方、台湾は数十画もあるミミズの集合体のような難解な文字が数多い。 (私事だが親が苦労したであろう自分の名前も、台湾に行くとよく見られて、なにか 親近感が湧く) 右にそれたが、水晶は意外とその種類も多く百貨店などでも売っている。 透明な中に金糸(財運)、緑の草(藻のようなもの)が入ったもの、紫水晶、黄水晶、 黒水晶その他ある。 当時、珍しいものを少しずつ買いあさったが管理が悪いので、今はネックレスサイズの紫水晶が残るのみだ。 (収集癖は学生時代まであった。切手、コイン、シールの類) 玉も2、3点ある。一般的に宝石とされる硬玉(ミャンマー産で深緑色。高価)と軟玉(中国産で透明、白色、淡緑色)がある。 あるとき台北のパーツ街をうろうろしてたときだ。道路脇にテーブルを囲んで人だかりができている。覗き込むと玉を出しては売る、引っ込めるを繰り返している。後で知ったのだが業者向けのせりだ。 何気なくじっと眺めていると、そばのおやじ(かなり年配の人)が話しかけてきた。 まだ片言しか話せなかったのでおどおどしていると、日本語が分かるらしい。 冷やかし半分に眺めていたと言うと、何かほしいものがあれば自分が競り落としてやるという。(このころの年配者は日本語教育を受けた人だろう。学校で習ったといっていた。 過去、日本が植民地化した周辺アジアの国々の中で、唯一台湾が親日的だ。 理由の一つに、中国統治時代の圧制のひどさに比べ、鉄道敷設・教育など日本人の律儀さに好感をもったことのようだ。) 競りの品は中国の象徴である龍を彫ったものも多く、龍は嫌いではないので、指差して落札してもらった。聞くとミャンマー産の一枚岩から採れたものだという。爆破して砕いたなど持ち込まれるまでの話をしてくれた。価値の分からない者には少々高かったが、市価では何倍もすると言っていた。(ヒスイ輝石50%以上が宝石扱いされる硬玉だが、買ったのは硬玉のうち安い方のものだろう。 宝石に分類される深緑の小ぶりなものは、目が飛び出そうな値段だった。) 買った品だがよく見ると透明度があり白・薄緑色をしている。長年身に着けていると石の色合いが変化するそうだ。 買った当初は現地人同様、首にぶら下げ生活していた。 ところが元々装飾物を身につけるのが嫌いな上、重かったのでいつの間にか外した。(首の吊り下げ紐が目立つらしく、理由を説明すると嘲笑にあうことも多々あった。) 関係ないが、身に着けるものでは腕時計も煩わしく思う時期もあり、腰に懐中時計を着けだ時期もあった 今は小箱に眠っている。 今日はこのへんで 気が向いたら、次回は食の事情について |
台湾。世界で最も親日的な国。かれこれ十数年前より数え切れないほど訪れている。(もちろん仕事だが) 中華系民族特有の自己主張の強さ、実利的なところ、バイタリティの 豊かさ様々な面を持つ九州ぐらい?の島国だ。 ちょうど今は旧正月(ちなみに近隣アジアでは西暦正月は日本だけ)真っ只中だ。 日本同様、帰省大移動が始まる。ただしこの時期ばかりは高速道路の通行料は無料開放される。(もともと低料金だが。商業主義一辺倒ではなく日本もこうゆうところを見習ってほしい。) 最近では先進国並みのマナー、モラルの意識を持つようになってきたが、 まあ最初のころは酷い点も多かった。(今の中国ほどではないが) そこで今回は交通事情?を交えてちょっと。 街の交通手段としてのタクシーは白タク多く、公共のものもメータがない、あっても使用せずぼったくる。(それでも何度か行くと相場が分かるのでこちらから一方的に支払いを済ませることも多かった。) 運転マナーも日本のように優先規則有無ではなく、早い者勝ち的な走行だ。お客さんを乗せてるいう意識が薄く、安全運転とは程遠い。(総じてアジアのどこも大差ないが、最近はかなり改善されてきた。) 当時車載エアコンのないもの、周りのフレームがさびなどで腐りかかったもの傷へこみだらけの車が多かった。(日本車は関税100%で単純に日本倍額でしか手に入らず、非常に高価だった。) ここ数年は洗車場が普及しており驚いた。 ある夏場、助手席で暑いので窓を開けていると、いつも通り激走して路肩駐車している細い路地を進んでいた。突然ガシャンという音と共にガラス破片が振り込んできた。 何事かと思い我に返るとどうやら駐車している車とドアミラーが干渉したらしい。 運転手はいったん停止するも何もなかったようにすぐ発信してしまった。 文句を言うと彼はきょとんとして不思議そうにこちらを見るのであほらしくなってそのまま支払いをしてでた。 (事故だけは未だに多く、特にスクーターとの干渉事故など日常茶飯事だ。なお、スクーターは圧倒的に数が多く、専用道路があるほどだ。) ちなみに、助手席はレールのないジェットコースターのようで日本人は誰も座りたがらない。 とある通勤時のことだ。送迎用の1BOXで移動中、うつらうつらしていると「ドン」を言う音にはっと目が覚めた。停止したので周りを見るとスクーターが1台ころがって人が起き上がろうとしていた。 どうせスクーターが突っ込んできたか、弾き飛ばしたのかと思っていると運転手が出て行った矢先、なにやら起き上がったおばさんが大声で怒鳴っている。ほんの一言、二言いって気が済んだのか、おもむろにスクーターを起こすと何もなかったように行ってしまった。 (たくましいといっていいのか? 隣席の同僚と首をひねりつつ、なんだったんだろと思ったが、また寝た。) あるとき夕食に出かけると途中なにやら言い争いをしている。自転車に乗ったおばさんと車から降りてきた男性が怒鳴りあっている。何があったかは知らないが夕食後また通るとまだ居たが、突然何もなかったようにさっと引けた。(よく分からない?) 世間一般で大阪のおばちゃん云々いわれるが、こちらはその比ではないだろう。 ああ中華系の女性は怖い! |
つい先日世界遺産の類の番組を見た。 世界各国の歴史的建造物、史跡を短編紹介していた。 ヨーロッパ編は人工の芸術的建造物のシーンが多い。 アジアに限って比べるとまるで違う。 少ない体験のなかで肌に感じていたことだか、キリスト教中心とした文化と仏教文化の相違だろう。 よく狩猟民族と農耕民族といって喩えられことがあるが、明らかに芸術性の相違がある。 何か?民族性もあるが大きな点はその風土にあるだろう。初めて足を踏み入れたときに直感したのが、時間の流れだ。何か違う空間に紛れ込んだようにゆっくり落ち着いた流れだ。 見るもの全てが新鮮だ。こういう場所で生活すると心豊かになり、かの繊細で優雅な芸術を生むのであろう。 わびさびの世界とはまるっきり異なる。(それはそれでいい。) また、アジアでは何処も大差なく、皆せわしく不断なく活動している。 (本当の意味で落ち着いたと実感がもてたのは唯一ヨーロッパを訪れたときだったような気がする。) 残念に思うことは京都などの一部は古い町並みを残したまま生活しているが、アジアの何処も総じて壊して造ることしかしない。 一方は自分たちの歴史を残しつつ、何百年(何千?)も街のかたちを残しそこで生活をする。(まちがっても日本の家のように新しく合理性の高いものを良しとせず、彼らは自分たちが住みやすいよう内装に手を加え生活している。) 自分たちの歴史・文化に畏敬を持って生活している。 自分には芸術のセンスが全くないのだが、身を置くと素人ながらも違いは感じられた。 (このため文学、音楽他 芸術的なセンス、趣味を持った人にはとりわけ尊敬の眼差しになる。) 有名なフランダースの犬というアニメ番組で、主人公のネロが教会にあるルーベンスの絵画に憧れていた。 ちょっとした教会、城に入ると、よく分からないが注意してみると何時間いてもあきない。 余談だが南の島々、アメリカ(一度仕事で行った)など好んで行きたいと思はない。 残念ながら感嘆すべき長い歴史と文化がないからだ。 また、街の夜景でどこそこがいいだのいわれるが、その時のもの珍しい情景だけだ。 数々見たが心に残らない。自分にとっては飾り付けしたクリスマスツリーのようなものだ。 全く別の感覚をもた文化圏としてやはりヨーロッパには魅力が多い。 老若男女関わりなく、「無理してでも騙されたと思って一生に一度行った方がいい」とよくひとに奨める。 閑話休題、ヨーロッパは国が陸続きのため時間にゆとりがあれば列車でいろんな所にいける。(国際間列車が走る為、国境付近でパスポートを見せるだけだ。) 訪れたときはウィーン(オーストリア)に行きたかったのだが、時間的都合でドイツとの 国境の町ザルツブルグで留まった。(なぜか芸術音楽の雰囲気に浸りたかった。) 恥ずかしながらかのモーツワルト生誕地とは知らず。 さすがに芸術の街だ。厳寒の中、路上でピアノの弾き語りをしていた。(息を吐くと正面が真っ白になる上、霜で先がぼんやりしているほどだ。)もちろんクラッシクだ。(なんだろうこの感じ。街全体が芸術だ。日本の路上ギターとは比較してはいけないが、雲泥の差だ。) と、横に巨大なビールサーバのようなタンクに人が群がっている。 近づいて覗き込むと、紙カップになにやら湯気をあげた濃紺の液体が入っており皆美味しそうに飲んでいる。(こっちの人はグレープジュースを温めて飲むのが習慣なのか?) 見たものついでにひとつ飲んでみよう。一口!何か違う。もう一口。 ワインだ。濃い赤の。 こっちにきて数々のビール、ワインを味わったが、こうゆう飲み方は初めてだ。 意外に美味い。やはりサプライズが多い。 (ちなみに朝は列車の車内販売で硬いパンとビール、夜はビールと何かだったので一日 酒浸けだった。) 今日はこのへんで。 |
人生について迷いが生じた。 そんなとき、ふと禅寺に行こうと思った。(自分は無信教者だが) 阿蘇に金剛宝寺なるところで修業体験の受け入れがあった。 長期の出張帰りの折、次の仕事まで間があったので有給をとって 出かけることにした。(有名になった黒川温泉も程近い) 着替えを少々もっていざ向かう。到着すると2~3の女の子グループ がいた。男はひとりだがまあいい。 周囲は茂みに囲まれて、下界とは隔離されている。(雑音が入らず丁度いい) 毎日は朝のおつとめ(読経)、掃除から始まり、写経、禅、炊事と宗教行事 、生活行事をする。(昔から炊事だけは苦手なので、作るのは女性陣に任せて 洗い物ばかりしていた。) 昼の行事は日替わりで異なり、世話してくれるお坊さんがその日の予定を決め てくれる。(体験者に飽きさせないようにその日の行事を決定。) 普段しない座禅は足に堪える。それでも一時のことなので踏ん張るも、すぐ つってしまい我ながら情けない。 (本当は棒で肩をパチンと叩かれるあの修行をイメージしていたが、ソフトな 体験という感じだった。) 修行?のなかに水行なるものがある。来院前にどこかの広告で見たのか一人の 女の子が水行をやりたいという。 敷地内のすぐ横に小さな川があり、そこで男性はふんどし姿、女性は木綿の上下を 纏い川に浸かって読経する。(見ず知らずの女の子の前で露出するのは、水泳をやってた とき以来だ。) さすがに夏といえ山の水は刺すように冷たい。なんとも何を喋ってるか分からないうちに終わる。 次の日また別の女の子グループが来た。また、水行がやりたいという。1日で懲りて 勘弁してほしいと思いつつ参加しないわけにはいかない。 がまんがまん、帰りにあったかい温泉にでも入ろう!と自らを慰めつつ水行終了。 (雑念と一緒に精気も流れたのような) 食事のときお坊さんが肉類を口にするのが善か悪かの話があった。(宗派ごとに見解は 違うのだが) 自分たちの宗派?では生きてる動物を殺生し食べるのは非で、死んだもの を食べるのは良とのことだった。 (あと付けの単なる理屈としか思えないのだが。 話はそれるが人は結果に対して、自分 の都合のいいように後から解釈を付け納得させる傾向に陥りやすいと何某かの学者が言っていた。) オプション?世話役が隣接する山の頂上まで行くが自由参加なのでどうですかという。 全員行ったがこれがまたハードだった。 途中で拾った木の枝を杖にして急斜面の獣道を一気に駆け上がる(数百mどごろではない)。 体力には些か自信はあったが、さすがに堪えた。何度も水分補給のための小休止を挟みながら登頂。(お坊さんで1、2日おきに散歩代わりに行く人がいるらしく感服) 周りは木々、茂みだらけで普段、人跡がないところだ。しかし、阿蘇の周りの山々が見渡せて絶景だ。 日々のおつとめでは都度、お坊さんと共に袈裟を纏って礼拝だ。ひと時、厳かに身が引き締まる思いとなる。袈裟は冠婚葬祭で何気なく見るが、着せられてるという感じで体が重かった。 終了後、自分自身の変化は感じなかったが、世の中の知らない範囲を体験できたという意味でいい経験だったのか。本格的な山篭りとはいかなかったのだが。 |
国内唯一足を踏み入れたことのない県、沖縄だった。 海?何処にでもあるし沖縄の海を特別に見ようという気もない。悪意はないが訪れる理由(目的)が見つからない。 そんなとき沖縄マラソン募集との広告が目に留まった。 20代までのころとは違うものの、体力はまだまだとの思いがあり自分の限界を知りたいとの衝動から、またも無謀な申し込みをしてしまった。 もちろんやったことはない。今度ばかりは野垂れ死にするだろう。 しかしそう入ってられない。毎日帰宅すると近くの公園(トラック周りを犬の散歩、健康歩きの人がちらほら)で夜遅くまで黙々と走る。 ちょうどひと月半しかない。時々、20~30km走ることもあった。 いよいよ本番当日が近づいてきた。ところが急に無理したせいか左足の裏に痛みがはしる。(3、4日安静にしよう。) 沖縄へは前日入りし少し観光しよう。バスで首里城へ行く。思ったほどの大きさではなくこじんまりしている。艶やかな民族舞踊をみて帰る。 いよいよ本番だ。今のところ足の具合は何の問題もない。エントリーカードをみるとNoが12000番台。並ぶと後に10数人しかいない。いくら初マラソン・他県者とはいえ虐げられ過ぎではと思いつつスタート。 こうなったらスタートダッシュだ。側道を縫うように前へ前へ。 勢いだけで中間の20km地点500番内ぐらいに入ったようだ。そこからエネルギー切れの上、左足に痛みが走り出す。どうしようやめようか。 側道沿いにはボランティア、住民の励ましが響く。黒砂糖、水、栄養ドリンク、レモンなどランナーに差し出す。中には民俗音楽で声援する人々。 (なんて暖かいんだろう) 体力はまだありそうだが足がついてこない。もうやめようか。何かゲートらしきものが見えてきた。米軍の嘉手納基地だ。中に入ると米人が脳天気そうに自分たちで盛り上がっている。(そう見えるがきっと彼らなりに純粋に声援しているのだろう。) あと7、8キロだ。もう足は半分引きずった状態だ。横に人影と思うとすぐに前の背中が遠ざかって行く。そこへ1人の少女が。すれ違いざまにファイト! 根が単純なので勢いが復活するも、悲しいかな「ファイト」は100mしか続かなかった。 それでもだましだまし意地のゴール。 前半の貯金のおかげで2000番台で終了。証明賞をもらい、ボランティアのマッサージ(まさに至れり尽くせり。ありがとうございました。) 前日の夜からバナナとチョコしか食べてなかったので、麺屋で名物のソウキそばを食し、居酒屋でチャンプルに舌ずつみを打つ。(ちなみにソウキそばと沖縄そばの違いを聞くと豚の角煮?があるかないか差だそうだ。) その後も冬になるとマラソンのエントリー案内がきていたが、満足したので以来行ってない。 |
今日は「情」について少し。 いつだったか、五木寛之の「情の力」なる本に出会う。本屋で何気なく目に留まり、衝動買いした。(多感な時期に文学っぽいものはよく読んだが、しばらくこの類は読んでない。) 次のような内容だ。 いまの日本人に大切なこと。・・・『「情」は「こころ」です。情がかけているというのは、すなわちこころが乾いてひからびていることなのです。・・・「愛」ではなく「愛情」、「友」ではなく「友情」、「熱」ではなく「情熱」・・・「情」という言葉、つまり「こころ」が付くことによって、適度な湿度と重さが加わるのです。・・・』 一度は見てみるのも。 言葉の意味の深さに「う~ん」と。 私見では特に女性には感性として大切な言葉ではないだろうか。というより都合の良い言い分、期待で、多分惹かれるであろうことなのか。 (ひとごとながら、ちょっとした態度、対応といったことに残念だと感じることもある。) 同じ情でも「情報」を意識すること「常」としている。 知らなくて損することはあっても、知って損することはないと思っている。 ある意味、情報とは自分のリスクを軽減する保険みたいなものではないかと。 行動する、自分が事を成すための重要具と思いつつ、奔走し続けてるようだ。 またまとまりがなくなったが、思ったことを口に出す性分なので兎も角いってみた。 |
冬真っ只中。久しぶりの感覚。 昼間外出しようと、我が愛車の前を見るとうっすら雪を発見。 周りは積もってないようだ。ひと安心。 前愛車は冬装備せずとも、2、3000Mの雪山を平気で登っていた。 今はチェーンはあるがほとんど使わない。 数年前、仕事で韓国に行ったのこと。釜山から北に列車に揺られること2時間(首都ソウルまでは少し離れてる)、小さな町に滞在していた。 (北海道くらいの緯度だったか) 道路があちこち凍結している。(この時期湿気が少ないらしく路面に水溜りがないので、ほとんどの車がノーマルタイヤで走ってる。) タクシー待ちで外にいると体の露出部分が痛い。顔に覆面したいほどだ。 以前、雪山で吹雪かれたときの感覚を思い出す。 目を疑った。幅数百Mはあるだろうという川が凍結していた。ホテルの受付兼、送迎運転手に聞くと外はマイナス十数度あるらしい。 まつげや鼻に水分があるとすぐ凍ってしまう。(鼻水も凍る) それでも韓国の住居はオンドル(所謂、床暖房)装備のため、部屋内は快適だ。まだハングルは難解だ。 唯一通じる「チゲ!」、「ビビンバ!」といって同じものばかり食べていた。(ちなみに普通のビビンバは料理用のボールででてくるので美味くなく、石の器を指差して石焼きビビンバを食していた。) 「ラーミョン?」(ラーメン)はどの店も日本の即席乾麺に赤いスープででてくるので食べる気がしない。 焼肉で味付けしてないものは「焼肉のたれ」ではなく、味のないゴマ油かみそに付けて食べる。 それでも、料理を注文すると例外なしにサービスの前菜(色々な種のキムチ、のり、付き出し)があるので、これだけで満腹感で満たされる。 寒いところの話は今日はこれ位にして・・・ それにしても今日は暖房の効きが悪い。 |
世の中、戦国時代に代表される日本の騒乱期が好きな人は多いだろう。 私もその一人だ。 歴史小説家として独特の歴史観、知名度は今更でもなく多くの人に惜しまれて亡くなった司馬遼太郎。 数々の著書は未だにファン層が厚く、面白いものが多くよく読んだものだ。 著者の紹介をしたい分けではないが、最近この人に自分が共感するところが少し思い当たる節がある。 ただ歴史について書物を調べるのではなく、常に、自分の足で見て、聞いて、感じて、そこで当時の人物像の虚像になって考えようとしていた。 自分はそういう興味はないが、直接自分で見たり、感じたりして初めてのものに遭遇する刺激、驚きを持つことに強く共感していたような気がする。 食一つとっても、他人の評価が良とは限らない。自分の経験したことのない体感の中にすばらしいと感じるものだ。 ここ数年物欲、所有欲はない一方、どこかで心の豊かさをの望んでいるかもしれない。 また、思うところを書いてしまった。 |