草なぎ・・・の逮捕。 どこをみても同じニュースばかりだ。 偏った報道、様々な意見めいたもの。 感じたことを一言だけ。 ただの感情論だけで物事をみるのは「ちょっと」と思う。 事実を冷静に見る必要がある。 ・理由はどうであれ公務の警官に抵抗(妨害)した。→逮捕 ・奇声をあげ就寝時の近隣住民に迷惑をかけた。→精神的ストレスを与える よくあることなどの温情どうのこうの以前に、逮捕に際してあたりまえの(正当な)対応がとられただけだ。 20歳そこそこの人ではない30半ばの大人?なら、酒に対する自分の限界は予め分かっていると思う。 行動についてもある程度予測はできるし、自制を働かせるチャンスはいくらでもある。 (こういう自分も若い自分、酒に飲まれたことはあるのでえらそうに言えたぎりでは ないが・・・) 間違えは誰にでもある。だが、人に迷惑をかけてはいけない。 いつもながら思うのだが後悔するなら、自分を律することにもう少し気を傾ける努力をしなかったのかと。 謝罪ならば、当事者たる奇行時周辺の住民がまず最初ではないだろうか? ついこんなふうに思った。 |
このたびのゴールデンウィークは久しぶりのまとまった連休となりそうだ。 それにしても世の中、相変わらずいい状態とはいえない。 ここしばらく一緒にやってきた人が先日、関西へ戻ることになった。 特に親しくしていたわけではないが、いなくなると物寂しくなるものだ。 ごく当たり前のことだが人の血の流れ同様、世の中を創っている人、物、金といったものが、それぞれうまく循環しないとそのものに生命力がなく、つまらない。 ばらばらの小さな流れが、大きくなり増えていくことを願う次第だ。 ゆとりといってられない人も多いが、こうゆう時期にこそ時間について考えるのもよいのではないだろうか。 これまでとは別の視点で、過ごし方、使い方を考えてみることで何かしら楽しみにつながることがあるかもしれない。 なにせ時間は有限である。これは、いつも意識して過ごしてきたつもりだ。 幸い、今熱中して取組めることがある。ない知恵を、ああでもこうでもないと日々奮闘?させるのもそれなりに楽しくもある。 |
1週間前のことだ。 早朝に目が覚めることが多かった。 朝、ニュース番組を見ようとするとマスターズの放映があった。 ゴルフに対しては若いころか「年寄りの道楽」と自分に言い聞かせつつ、まるで興味がない。 気軽にできないのが最大の理由だが、一度やり出すとのめり込みそうで意識して遠ざけているかもしれない。 それはさておき、放送画面の鮮やかさについ見とれてしまう。最近、風景を扱う番組はこの種のものが多い。去年、安くなった折ちょっと大き目のプラズマTVを購入した。言い過ぎかもしれないが目前に居るかのような錯覚を起こすほどだ。 (長年使用してきたプロジェクターが去年お亡くなりになった。画質はかなり粗くTVに劣っていたが、にわか映画館の雰囲気だけでもとずっと愛用してきた。) 数少ないアナログ機器がまた一つ身の回りから減ったのは、寂しい限りだ。 とはいってもデジタルHDの臨場感あふれる映像美には舌を巻く。カセットテープからCDに変わったときの衝撃を思い出すようだ。 マスターズの話だが、日本人の片山が孤軍奮闘している。大舞台の圧力に呑まれる選手もいる中たんたんとプレーしている。最終日に残った選手も終盤が近づくにつれ、重圧で崩れる選手が増える。最後まで実力を出し首位争いの一角に残る健闘したのは脱帽する。 堂々たる4位だ。(日本人史上最高位) WBCでの日本の優勝ほど目立たないが、個人的にはこちらの方が偉業であると思う。 精神力というのは日常訓練で培われるし、また、それ自体を高める努力をしないと「ここぞ」に後悔を残す。 かつて得意分野だった競技、その他の競技でここしばらく日本が世界に通用しないことが多い。 相手側の技術力、身体的な優位性もあるだろうが、なにより見る側に興味を沸かせない。なぜか? 以前、旧共産圏があれほど強かったのは、どんな状況下でも自分を保てる絶対的な自信を持ち合わせていたからではないだろうか。 ゴルフに興味ないが、片山選手おめでとうございました。 |
いよいよ「レッドクリフ2」が封切りとなる。三国志を舞台にした映画だが、前作「レッドクリフ1」ではなるほどと感じさせる場面が多く、珍しく足を向かう気にさせる。 まずそのスケールだろう。普段なじみの薄い大河周辺の風景は圧巻だ。 山水画で有名な桂林を思い出した。桂林観光というと漓江下り。左右に望む奇峰を見ながら観光船で河を下る。船着場に着くや否や目に飛び込んできた風景が焼きついている。まさに水墨画の世界だ。筆舌に尽くし難い。幻想的風景とはこうゆうもののことだろう。 いざ、遊覧船へ。当時の珍しい?体験談から。 船上から河沿いを眺めていた。「川べりにうつ伏せの人らしき姿が見えるのですが。」そばのガイドに聞いてみた。「ああ、あれは死んだ人です。」(変わった出来事ですか?のような受け答えに次の言葉が出なかった。) 昼食時のこと。船中で「すっぽん」を初体験した。ゴムの塊のようでなんとも味気がない。(本当にすっぽんだったのだろうか。) 終始ぼんやりしているうち、あっという間に船旅が終わった。 中国の広大さと4000年の長い歴史にある奥深さは直に体験しないと身に伝わらない。(余談だが、学生時分のこと。留学生に「中国3000年の歴史」と安易にいうと「中国の歴史は4000年だ」とよく怒られた。ファン君はどうしているのだろう。) 清最後の皇帝溥儀の物語である映画「ラストエンペラー」。北京の紫禁城(故宮)舞台に撮影されたが、世界最大の宮殿と言われるだけありちょっとした城の比ではない。ぐるっと回るだけでも大汗だ。文化遺産云々よりまず移動が大変だ。 (因みに中国側の文化遺産は台湾の故宮博物館の方にかなりの文化遺産が持ち出されたとされている。) また教科書で馴染み深い兵馬ようこう。所狭しと掘り当てられた一連の兵馬像(よう)には圧倒される。 当時、周りに露店が並ぶ中、しつこく「扇子10本が1000円、まけて20本が1000円」と売り込んでくるのがいた。(どこに行っても同じようなことがあった。) シルクロードならぬ絹生産が盛んだけあって、絹製品が意外と安かった。露店でシルク製のシャツを1枚買ったのを覚えている。安かったが手触りが良かったのでまんざら偽者ではなかっただろう。 中国では買い物では注意しないといけない。隙あらば騙そうとする。 規模、集客数いかんによらず観光店は当てにならない。よく目に付くのが掛け軸。日本人がお土産にと買いだめする人がいる。いくら値切っただの何本買ったのだの。 日本語の話せる学生がいて雑談がてら色んな事を聞いたことがあった。彼によると観光店に置いてるものは大抵、寺かどこかでアルバイト学生が描いてるものが多いらしい。自分も経験あるとのこと。ちゃんとしたものは展示会などで求めた方がいいとのことだった。 また、とある観光店でのこと。 横にいた人が硯を購入していた。ショウケースに陳列される中から望みの一品を選び、まさに買おうとしたときの出来事。店員がケースの上で現品を確認。客が頷くと一段下の台で包装し前に指し出した。今一度買うのをためらったのか、店員の手元の動作に不信感を覚えたのか定かでないが、包装を解かせていた。中を見ると安い別物だったらしい。 文句を言って再度包装させる。店員は何もなかったように嘲笑しつつ再包装する。客も今度はじっくり監視していたようだが、相手の言うことを守るなど悠長な考えは通用しない。店員にもう一度包装を解かせ中身を確認する。案の定別物だ。まるで手品を見ているようだ。腹に据えかねたのか、そこの責任者らしき人を呼びつけ自分の目の前で包装させ無事完了。(当人には悪いが、傍から見ている分は喜劇のようで面白かった。) こうゆう事は程度の差あれ、多くの国では起こりうることだ。セキュリティ面しかり。 他人を簡単に信用するなど感情的に物事を考えがちなのは、ある種日本人の美徳である。だからといって、「まあまあ・・」、「たぶん・・」などと都合の良い解釈をすると痛い目にあう。こういう点は日本人が脳天気とされるだけだ。もちろん騙し盗む側が悪い。しかし、被る側の意識の低さ、隙は当人の責任である。 このような場面に出くわすと「危機管理」にもっと意識を向けるべきだとつくづく思う。 ついでに一言。 世の中にいい話などほとんどないと思っていい。人が利益に繋がる話を簡単に他人と分かち合おうとするだろうか。 兎に角、自分自身で充分確認・納得することからだと思う。 |
他地域と比べ日本は孤立した島国、少数民族という特殊性がある。 一方、世界地図を見ると数え切れない宗教、民族が隣接・混在しているところが多い。 このため有形・無形の遺産にそれぞれの文化・歴史が複雑に重なっている。 世界遺産のあるスペイン アンダルシアの伝統・民俗音楽について特集していた。かの踊り子で有名な文化、フラメンコ。18世紀末にそこにいたイスラム教徒により発展したとされ、たどるとキリスト教による迫害の歴史のなかで生まれたとされている。 そこにいたイスラム教徒は改宗を強要され土地に留ること、さらに北アフリカへと逃れることを余儀なくされた。 人々は生活文化・歴史を守り続け、その一つである伝統音楽を守り続けた。 フラメンコは独特の踊りに目を向けがちだが、民族色の強い音楽である。言葉に歴史そのものへの思いがあり、悲痛な叫びが込められている。 個人の夢、愛、また、一過性の趣向ではなく、土地を奪われ迫害されたことに対する民族の思い、叫び、誇りなど。 画面を通してではあるが、なんだかそこにある奥深いものが伝わってくる。演奏場面では人の魂の叫びという表現をしていた。 それが抑揚のあるリズムとなり、踊りの力強さとなっているのだろう (よく情熱と喩えられるその中にこういった様々な思いが入っているのだろう。) 思うに日本人にはこういった民族的なもの、心の拠所とするものがあるのだろうか。つまらないことをふと考えてしまった。 都合の良い面だけに目を向け、簡単に多くのものを捨ててしまったのではないか、元々そういう強いものを持ち合わせてないのだろうかと。 形ある遺産はどうだろう。 建造物を見るとき、どうしても外観に目を奪われがちだ。創られるに至った過程にある主体側に陽が当たるが負の面には中々目が向けられることがない。例えば、城そのものに足を向けるが城郭にある生活施設、拷問施設など背景をなすところは見落とされがちだ。 やはり全てひっくるめて歴史、いろんな人の思いを知るとまた別の見方ができるだろうとちょっと考えてしまった。 近くで欧州の雰囲気を見ようとすると旧イギリス領の香港、旧ポルトガル領のマカオがある。何れも中国返還前のことなので最近の事情は分からない。観光目的で訪れたわけではなかったが、マカオはその雰囲気は味わえると思う。 (小さな町なので歩いて散策できる。西洋人と東洋人のハーフも多く、端正な顔立ちに驚いたのを覚えている。) 一方、香港は町がごみごみした上、近代化が進んでいるのであまり好まない。観光客には悪いが日本人買い物観光客にはうんざりだ。 |
本日のやり取りから。 昼、お茶を入れに給湯室へ行く。ここ一年くらい時折見る女性(お姉さん?おばさん?)だ。何気なくお茶を入れようとしていると「チャイムなりました。?」と 自分ではうなずいたつもりだが、「返事ぐらい」ないのかと。 無視したと受け止められたのだろう。 他愛もないことだが、対人への“期待”について考えさせられることだ。 人は往々にして自分の言動について自己なりの都合、解釈を持って応答を期待する。 ところが、相手となる当事者自身の都合がある。例えば、考え事をしていた、間柄、当人の性格、気分、調子と色々ある。 お互いたまに挨拶を交わす程度だが、改めて考えさせられる。 自分または相手に「こうだからこうなるものだ」、「こうあるべきだ」と考え、期待するのはあくまで個人の思い込みだ。 他に何かを期待しようとしてギャップに遭遇すると本人の挫折感、対象への偏重した考えが生まれてしまう。 物事に対して最初からニュートラルな姿勢・思考であると結果に動揺され難い。 まず、期待せずに複眼を持って冷静に結果を受け止めることが大事と思う。 人間のちっちゃいことを言ってしまった。 |
ジョン(犬名)は今日で外出散歩が2回目になる。 我が家に来てはや半年、最近は片手で持つには重くなってきた。 ケーキ箱に入るサイズだったのが、大きくなり与えた寝床の籠が小さくなったようだ。 週末なので洗ってやった後、身の回りの手入れをしてやった。爪を切るのは相変わらず嫌がるが、だんだん観念するようになった。 付近の公園へ連れ出した。子連れ家族が点々と楽しそうに遊んでいる。 観る光景が珍しいのか、きょろきょろして落ち着きがない。 と、同種犬らしき子犬を連れた子供が母親となにやら言いながら近づいてきた。 ジョンが来たときを思い出すような(両手で隠れるほど)大きさだ。まだ1~2ヶ月だろう。うちのと同じ種類などと母親に言いながら子供がさらに間近にきた。 「こんにちは。オスですか。」という。「オスだよ。」と言っていると、ジョンが飛び跳ねながら吼える。外の環境に慣れてないのか警戒心からの行動だろう。向こうはメスだそうだがきょとんとこちらを見ている。母親から「怒っているようなのでこちらに来なさいと」諭され、また向こうに行ってしまった。 (まだ外慣れしてないのでごめんなさい。) 公園の中に入るには階段を上り下りしないといけない。あれほど嫌がっていた階段だが、興奮していたせいか少し手綱を引くと一瞬、躊躇したかと思うや警戒に降りていった。 (不安もちょっとしたきっかけで治るのだろう) 帰宅の途につくも階段をあっとゆう間に駆け上がった。(単純なものだ) 帰宅してもいまだ「ゼェゼェ」言っている。楽しかったのだろ。 なごやかな一日だった。 |
このたびのWBCに興じた人も多いだろう。その内容は他に譲るとして昨年のオリンピック以来感じるところがある。 公の場での韓国側の横暴な振る舞い、言動は置いとくとして気になってた日本側の姿勢だ。今大会では相手の無作法に反意を持って決起させられた結果、勝利に大きく貢献した観もある。 アメリカを始め主要な有力国は最初から結果が分かったかのようだった。 すなわち開催前から自国の実力優位であるとの驕りだ。それゆえ相対した場面で観戦側に試合そのものの興味を沸かせない。 こと韓国選手は日本との対戦で初回からヘッドスライディングしていたという。 理由はどうであれその闘志は見習うべきところだ。 相手に誘起されたとはいえ日本側にオリンピック当初見られなかった姿勢は後半幸いにも強く表れたのが良い結果につながったと感じる。 (オリンピック当時、日本選手が言っていたのは相手の気持ちが一枚上だったなど。相手云々より本人に強い気持ちがないのかとあきれた。) 本題だが。 なぜこんなことを言っているかというと少なからず周囲の人に感じてきたことがある。 老若男女問わず日本人はアジア各所に行くと変な驕りを強くし、現地への蔑視態度が顕著だ。たとえば、二言目には「日本では・・・」、「日本人は・・・」と言う人をよく見かける。露骨に表現しなくても、間接的に言動に表れることもある。 (こうゆう場面に遭遇するとあなたが創造したのか、見識の狭い個人の常識かどうしたのかというような事を思う。他人、自分の下らない自慢よりも純粋に相手側の文化、習慣などを理解する心の余裕を持ちあわせないのかとつい思う。) 一方、自分に利があることには低姿勢だ。(言う側の多くは気づてないようだが、相手もばかではないので見透かされている。) ところが、変なコンプレックスからなのか欧米に対しては謙虚(腰が低い)。 こういったちょっとした事が依然、周辺諸国に溝が埋まらない一因なのではと感じる。 自分も若い頃こうゆう面は少なからずあった。それでも相手に先入観なしに素直に接すると、対応は違う。(いまでもこの気持は大事にしている。) 確かに多くの面で優位性のあることは多々ある。しかし、これはたまたまその時代、環境にいるというだけで立場変わればどうだろう。 日本もちょっと前まで何もない時代だった。 体制、環境など違いはあるが、やはりその国、人に対する尊厳は大事にしなくてはいけない。 たとえ、期待通りの結果が返ってこないにせよ(相手に一方的に期待しないほうがいい)常に謙虚な気持ちは持つべきだとは思う。 虚栄心のような外に対する高慢なプライドまがいではなく、内に対する謙虚さ(自己への客観的な視線など)は必要だと思う。 同時に劣者、弱者に対する優しさしかり 愚痴っぽくなったが、ずっと引っ掛かることなので書いてみた。 |
今朝、通勤途中いつも通りラジオ番組を聴いていると桜の開花情報と題して水戸の偕楽園、角館・・・となぜかこの2都市に触れていた。ふと思い出した。 (回顧となるのもめっきり出る事がなくなったことからくるストレスだろうか。) 水戸は茨城の県庁所在地。一度仕事でこの付近の町にいったのだが滞在期間の少なさからかほとんど印象が残ってない。当地の人に名物?の「あんこう鍋」を奨められてご一緒したが身がたんぱくで、さ程といった印象だった。 一昨年に水戸へ行く機会があった。羽田→上野にでて常磐線で北の方へ下る。利便性もあって駅周辺に宿をとった。 休日に電車で普段とは逆方向(上り)に行ってみた。 水戸を出るとすぐ視界に広大な庭園風景が飛び込んでくる。日本三大庭園のひとつだけあり一時の間、線路ごしに景勝地の眺め続く。 じっくり庭園観賞する奥ゆかしさを持ち合わせてないのでこれで満足してしまった。 ところで水戸というと黄門様。駅を始めいたるところに黄門様がおいでで(像)、風雪に耐えしっかり庶民を見守っておられる。こんなに同一有名人が複数みられるところも珍しい。 (勧善懲罰の典型である、かの有名な時代劇は幼年期お世話になりました。) 次に水戸といえば納豆。どちらかといえば好きなほうだ。 昼食はいつも社内食堂で仕事先の人とご一緒していた。毎度必ず納豆を食べている。納豆を食べるときは実に真剣というか熱意のようなものが感じられる。そこで、「やはり納豆は好きですか?」。「はい、朝、昼、晩食べます。特に、ここのは美味いです。」 (なるほど。よく分かりました。) 次の日、期待がてら食べてみるも、特別な驚きはない。味覚がおかしいのだろうか?しばし考えつつ、その晩、藁に巻かれた一品物を買い再度賞味。やはり今までと変わらない。 所詮、素人には分からないものだと納得してしまった。 とある時のこと。隣県の千葉よりなじみのある顔がやってきた。懐かしさもあって茨城人、千葉人を一緒に宴をもった。雑談に華を咲かせる中、両雄の対抗心に火をつけてしまった。昔「ちばらぎ」東京近郊の人がいってたのを思い出し、ついこの言葉を言ってみた。 千葉方の目の色が変わった。特産の話からはじまり、淡々と違いを講釈しだした。面白かったので「目くそ鼻くその話」などとさらに油を注ぐと勢いを増して、「東京ディズニーランドは東京ではなく、千葉にあるので正確には千葉ディズニーランドだ。」とご丁寧に解説してくれた。 その他この地方の戦乱期の話を聞けたこともあって面白かった。 この種の話では昔同僚だった関西人が徳川について言っていた事がある。彼によると日本の都は古来より関西にあったのだが、徳川家康が東に移して以来、中央でなくなったことが事の外、腹立たしいらしい。(関西方面の人にとっては徳川(家康)は国賊なみに思われてるようで、このことは脈々と受け継がれてるらしい。過敏なとこには触れない方がいいだろ。) 水戸の四方山話となったが、一方、角館というと商家、武家屋敷が残る東北の町だ。 地方によくある古城下町といった印象で、深い自然の中にたたずむ趣のある処といったところだ。ただ、土地柄、他の町とは違い戦火の難から逃れやすかった環境にあり、建物など過去の形がそのままに多く残しているようだ。 押入れに使うことなく「みちのく小京都 角館」と記された赤いうちわが眠っている。 日本には「小京都」が氾濫している。いまや俗化された言葉で新鮮味がないのが残念だ。 今日は別の話を書くつもりが水戸一色になってしまった。 |
昨年「篤姫」を無視して以来、今年はと「天地人」に期待した。 回を重ねるも、なんとなく物足りない。やはり同じように感じる人も多いようで視聴率も減退のようだ。 顕著なのが中心となる主役のミスキャストだとの意見が多々ある。同感だ。 史実と嘘の面は置いておくとしても、智略を秘めた一武将を表現するにはあまりにお粗末としか言いようがない。人には向き不向きもあるだろうし、役者自身、特段、批判するわけでないのだが、真剣に人物像を理解・表現しようをしているだろうかと疑問符が残る。それゆえ何も伝わってこないと感じる人が少なからずいるだろう。 (数年前に歌舞伎役者が頻繁に泣く作品があったが、人情ものの如く武将たるものが人前で簡単に涙腺が緩むことがあっただろうか。この点は大いに不満だ。) 人それぞれの見方はあるが、興味本位のドラマと違い、大河ドラマには史実に対する尊厳、正確な時代考証が求められるし、この点に期待する人もいる。 つい批判調になったが期待してただけに残念だ。 前々回で亡くなった上杉謙信役の阿部寛。 彼は役柄問わずオールラウンドに事をこなせる俳優だとあらためて感じた。ドラマなどはあまり見ることはないが、台湾に行ったいたときに再放送?をみた。 (出張に出ることが多かったせいか国内事情には疎く、「看護士」が分からなかった。いつ「看護婦」と呼ばなくなったのだろう。?) 因みに台湾では公共TVは有線放送で数10チャンネル(CH No.は100ちょっと)ある。日本の番組はNKH、過去の娯楽番組など数CHある。 その数少ない放送のなかで、確か「結婚しないorできない男」?だったか主演ドラマを流していた。阿部寛演じるキャラクターが面白いので時々見ていた。外貌は少々譲るとして(気にしないで)、ドラマながら似たところがあると勝手に感じてから妙に親近感をもってしまった。 さておき、以来役者としての資質の高さを認めるところだ。 |