最近、車の運転手を頼まれることがあり、今日も、式典会場と新幹線の駅との間で、ある町の町長を送迎したし、数日前はモンマルトルの名誉市民でもある町のゴッドマザーも乗せた。 私の運転は、とても慎重だと、みなさんおっしゃる。後ろから無暗に接近する車があれば道を譲るし、車間距離はたっぷりとり、ブレーキ時のつんのめりはほとんどない。 実を言うと数年前までは、こんな運転ではなかった。抜きにかかられたら抜かせない運転をしていたのだが、2年前に事故をおこしてから、ガラッと大人しくなった。 要するに、前の車も後ろの車も信用しなくなったのだ。それを言うと前の前の車も信用していない。不意に急ブレーキをかけられることがあるということが想定内になった。自分の力で災難を回避できる最善の運転をするようになったのだ。 言わば面白くない運転である。 そんな運転で良ければ、運転手として声をかけて頂ければあなたのもとに参上つかまつる。 他人を簡単に信用してはいけないという教訓を私は実践しているだけなのである。 |
今日の午後、電車に乗って町に出ようと思い、駅近くの線路沿い歩道を歩いていると、遠くの方で年配の女性が金網越しに線路のなかを覗き込んでいる様子が見えてきた。近づくと2~3才の子供がそばにいて、同じようにじっと駅の方を見ている。 おばあちゃんが孫に電車見物をさせているのだと簡単に推測できた。 2人がいつから、この場所にいるのか分からないけれど、かなり前からここにいて、これからもしばらく、じっと電車を眺めているのだろう。 子供は、大きなもの、動くもの、それに音がして、目立つ色の物を、好奇心から穴が開くほど眺めてるというが、電車なんて…その筆頭に違いない。 おばあちゃんは、そのあたりを知ってか知らずか、孫の子守に良い場所を見つけたものだ。 2人の横を通り過ぎる時…、私もその子供のように、目の前に表れる物を純粋に眺めていられる心の余裕があったら、もっとゆったりした人生を生きられるだろうか?…なんて思った。 いかんせん、私の心は純粋とはいいがたい |
今朝、町の婦人会の会長に呼び出され、ある団体の町の施設利用について愚痴を聞かされた。 その団体に町の会がうまく利用されてしまうことへの危惧をとうとうと語られたのである。 会長から聞いた話をもとに、 利用されたくないなら、そうなった時の、会の対応を最初に明確にしておき、 どうにかして共栄できるように相手をコントロールする道を探ってはどうですか、アドバイスした。 すると、とても整理できた…と、言って納得するのである。 それにしても、みんな、どうして私を巻き込むのだろう? 私には関係ない事なのに…。 私に頼めば、断らないし、うまく話をまとめてくれるとでも思っているのだろうか? これから、私が身につけねばならないことは、うまくお断りする術…だと、しみじみ思うのである。 |
以前気になっていて、一度お会いしたいと思っていたけれど、自分から訪ねていくことを少しためらっていた人から、今日…市の都市計画課を通して、あちらのほうから私に会いたいと言ってきた。 有難いことだ…と思った。 以前素敵な人だと思っていた人に、今日…久しぶりに出会った。だけれど以前のように素敵には見えなかった。 私が変ったのだろうか?その人が変わったのだろうか? 出会いというものは、きっと必然に違いない。 その時々で、本当に必要な人に出会えるように…今日は、思った。 |
私のスマートフォンの調子が悪く、勝手に再起動を繰り返すやら、突然電話やメールの登録リストが消えてしまうやら、電話の途中で切れてしまうやら…、ごまかしながら使い続けようという限界を越えてしまった。 新しいのに変えようと思う。使ってみてスマートフォンはあまり私向きではないようだから、思い切ってガラ系の携帯電話にもどすことにするつもりだ。 そこで、今悩んでいるのが、携帯電話とアイパッドにするか、それとも電話と薄型のノート型のパソコンにするかである。 なんでもできますという機能凝縮型の流れから離れ、私はそれぞれの秀でた機能を分化して持つステップに入ったのだ。 思えば、私がスマートフォンに変えた理由は、ファッション的な要素が強かったし、私はまんまと業界にしてやられている。 スティーブン ジョブスの凄さを、こんな風に思い知るのだ。 |
昨日、スコップを持って坂道を登っていたら、カフェを経営しているフランス人から、“今日も異人館の前でファーマーね…!”とからかわれた。 その通り…私は異人館の前で先週末に植樹されたオリーブの樹の周辺土壌の水はけをよくする作業に向かうためにカフェの前を通ったのである。 現場で教授と落ち合った。異人館の館長と企画屋さんと3人で土を掘り起こしていたら、教授が“今日は、このくらいにしておきましょう。○○さん(私)以外は作業着の準備をしてこなかったようだし…。”私は思わず先生に返した。“先生、これ(今日の服装)は普段着です。作業着ではありません。” 私の普段着がファーマーに見えると言うのだろうか? 私の生活習慣が、徐々にファーマー化していくことに、少し恐怖を感じた。 |
自己責任とは ・青信号…気を付けて渡れ ・黄信号…気を付けて渡れ ・赤信号…気を付けて渡れ と、言うことだと思う。 青で渡って、はねられることだってあるのだから ただ信号を見て渡るように教えることは罪だと思う |
人生のなかで、一番幸せな時間を生きていると思える私は、差し迫って決断し努力が必要なこともなく、適当に軽い愚痴も言いながら一日を過ごしている。このような人生の欠点は生きる目標が不確かであること…。つい数か月前まで明確だった目標は、いつの間にか頭の片隅に追いやられている。まるで高温多湿な閉鎖空間のなかで腐りが始まったような感じだ。 足らない。なににかが足らない。幸せに浸るということは腐敗していくことだろうか? 本当の幸せとは、自分に足らないものを、努力し継続し、一つ一つ埋めていくことなのだろうか? そう思うと、今の幸せがまやかしに思えてきた。 幸せとは浸るものではなく、つかみとるものだと、自分に言い聞かせる。 |
ある日以来…私のことを嫌いになった人がいて…、その日を境に挨拶しても無視されるようになった。私が若かった時には、同じように挨拶もかえらず、目もあわせてくれなかった女性がいたが、彼女の場合、数年間経って私の目の前に表れ、じつは私に好意をもっていたと告白されて、びっくりしたことがあった。だがしかし、今回の相手は70歳の男性で、私には男色の気もない。 きっかけになったやりとりには心当たりがあるが、どう考えてもそこまで嫌われるほどの内容ではなかったように記憶する。 彼とは利害関係があるから、今のままではおさまらない。かといって第三者を立てるほどの事でもないし困ったものだ。 まるで、駄々っ子のようである。人間年をとると子供にもどると言うが、そう納得してしまえる関係ではない。 もうしばらくしてから、声をかけてみようと思うが、彼の態度から察する根の深さをみていると、いまのところ良好な関係にもどる自信がない。 自分では気が付かない一言で、私が彼の自尊心を傷つけたのだろうか? 人間の感情は恐ろしくデリケートなものだと溜息をついた。 |