人はどうして死ぬのだろう?老化するのだろう? 重い病気にもかからず、事件や事故や戦争や災害にまきこまれずに生きてきても、体の組織が再生しなくなり死滅する‘人のもつ寿命’とうものがある。 経験を深め、思慮深くなり、何にでも対応でき、悟りの境地に入る…大抵の人はそこに到達する前に死を迎える。 そう考えると、人にとって、もがき苦しみ壁にぶち当たり挫折し再びチャレンジすることが生きる意味のように思えてくる。無知で、未熟で、周囲が見えずに、ただただがむしゃらに生きる人生を、もう一度生き直すために“死”というものがあるように思えてならない。 私の内から、若かかりし頃に経験した感動や怒りや恐怖や嗚咽や歓喜が遠のく。 私に確実に死が近づいていることを自覚する。 それが人として生まれた定めだと納得する。 |
私の喋ったことに、即答で“よく分かります。”と答える人よりも、しばらく考えて“すいませんが…よく理解できないので、もう一度分かるように話してください。”と返してくる人を大切にしようと思った。 |
今日、マダムの店でランチを食べていたら、何度か店で顔を合わせて名前を覚えてしまったマダムと同年代のご婦人が入ってきて、隣のテーブルに座った。そこには、やはり同年代の男性が先に席に着いていて会話が始まった。 別に聞き耳を立てたわけではないけれど、その男性は最近大きな手術をしたらしく、どうやら快気祝いのような再会だと分かった。 病気の話から始まって‘死とは?’なんて話になってきた。若くはない者同士が真剣に死について語り合うのを聞いていると、さすがに重たい空気が流れたが、そのうちお互いに、いい話し相手を紹介して欲しいと言いはじめた。どうやら二人とも伴侶をなくしているらしい。 年をとっていても、男と女の緊張感のある関係は面白い。二人には多少駆け引きがあるように思えた。ひょっとすると二人は仲良くなるかも知れない…と、思いながら店をでた。 死が目前に迫っても、適当に誰かに恋していたいものだと思った。 |
ある町に貧しくも慎ましく生きる若い夫婦がいた。 夫の自慢は父親から譲り受けた懐中時計…しかし鎖が切れて今は持ち歩けない。 妻の自慢は母親譲りの長くしなやかな栗色の髪。 愛する伴侶のためのクリリスマス・プレゼントに…妻は懐中時計の鎖を…夫は妻の髪をすく鼈甲の櫛を買いたかったが、共にお金が無く思案していた。 クリスマスイブの夜…プレゼントした時の妻の喜ぶ顔を思って夫は妻に鼈甲の櫛を渡そうとした。しかし櫛ですくための妻の自慢の髪は短く切られてしまっていた。 妻は、髪の毛を売って買いもとめた時計の鎖を夫に渡そうとした。しかし夫の自慢の懐中時計はすでに人手に渡っていた。 オー・ヘンリーの短編の代表作‘賢者の贈り物’とは、こんな物語だっただろうか? クリスマスイブには、毎年…この物語を思い出す。 |
最近、スマートフォンを触りながら歩いている人をよく見かける。 おそらく、彼らはなんとなく流れに乗って歩いているから、接近してくる自転車には気が付かないし、信号の確認だって自分ではしていないだろう。 周囲の人を信じ切っているというか…油断しているというか…人間も動物なんだから表に出たときくらい自分の安全にもっと神経使うべきなのに…。 このままみんなが触り始めたら、事故が多発するに違いない。そうしたら自動車運転中は電話していけない法律ができたように、歩行中はスマートフォンを見てはいけない…なんていう法律ができるだろうな…冗談じゃなく。 その点、ガラ系携帯は、安全だ。 あとはアイパッドを使いこなすだけ…、私にとっては、なかなか手ごわいツールである。 |
誰かのことを思って…心配して…なにかをしてあげている…なんて口に出して言う人がいるけれど、そんな人は得てして、もしもなにか起こると自分の身をかばって、してあげている人のことを簡単に切ってしまうように思う。 いや、むしろ誰もが自分を優先するのだろう。 だから、誰かのことを思って…なんて、他人の前では言わないほうが無難に思う。 |
人の話を、普通の人はどのように聞いているのだろうか?一字一句発せられた言葉の意味を理解し、表情や仕草から裏に隠された本心を見抜こうとし、その人がなにをいいたいか完璧に理解できる人なんてめったにいない。 先日会議に出ていて、ある人の発表で聞いたことがない頭文字のローマ字があって、意味不明だったものだから、会議のあとで出席者10名ほどに尋ねてみた。そうしたら誰からも答えが返らなかった。その場で自分が分かっていないということを知られるのが恥ずかしいという気持ちもあるだろうが、分かっていなくても、私も含めそういう場で質問せずにやり過ごす人が大半に違いない。 サバーンのように経験した全てを記憶できる人なんて極稀にしかいないから、一言二言…言葉の意味が分からなくても、ほとんどの人はなんとなく感じとって都合よく理解するのだろう。 考えてみたら、芸術の評価と同じだと思った。同じ作品を見ても気に入る人、全く興味のない人それぞれだ。私は細かいところを観察しすぎないで、理解しようとする前にたっぷり、ぼんやり…と眺めていられる人になりたいな…。そのほうが全体のバランスや本質がわかるような気がする。 |
息子の車に乗せてもらって、移動中…車内に私の好きな曲がかかっていた。ビル・エバンスのアルバム‘Waltz for Debby’である。思わず音源がラジオかどうか確かめた。それはハードディスクに録音されたものだった。 十代の頃、私はブルーノートのレコードを集めていて、この手の音源は大好きなジャンルだった。しかし、そのことを、いままで息子に話したことは無かった。 私が若かりし頃に聴いていたアルバムを、今息子が聴いているとは、なんという不思議…。 彼に私の集めたレコードを渡す日がくると確信した。 年末ジャンボ?の販売最終日…いつものように半年前に買った…まだ番号を確かめていない宝くじをもって売場に行った。10枚で3,300円返ってきた。そこで私は新たに20枚買って帰った。 結局徳した感はない。宝くじは儲からないようにできている。夢を買うものだと納得する。 |
今朝早くから、まち造りコンサルタントから電話が入った。今晩行われる会議での私の発表内容を変更したほうが良いとの提案だった。それを受け会議の長である町のゴッドマザーに電話すると、本日の議題が多種多様で、しかもメンバーのなかに感情的になっている人がいて、時間がかかりそうだから、発表を早く切り上げてほしいと告げられた。 せっかく今日から事業のスタートだと思っていたのだが、かなり縮小気味の船出になりそうだ。 その後…ゴッドマザーは、話をややこしく言いふらしている会議のメンバーの愚痴を私にぶちまけた。冷静な彼女にしては珍しいことだ。よほど腹が立っているに違いない。 私は返す言葉が見つからず、‘私には何も言えませんが、今晩の会議ではいつものように冷静に対応してください。’とだけ言っておいた。 心の中では、自分の発表時間が短くなったことと、携帯で話をしている時間が長くなっていくことの方が気がかりだった。 |