一昨日夕方から会議があり、出席メンバーのある大学の副学長が冒頭…“みなさん帰るまでに、今からお渡しするアンケートに記入をお願いします。”と言って用紙を配った。 会議中にアンケートに書き込めという指示を、学校関係者がするのも“授業中に好きなことをやってもいいよ!”と言っているようで妙な話だと思いつつ、私は言われるままに答えを埋めて行った。 アンケートの中身は防災への備えについてであった。 昨日再び副学長に会い、アンケートの目的について話を問うと、阪神淡路大震災から19年目をむかえるにあたり、市民の防災への備えの希薄化を証明したかったと答えた。 そお…そのとおり…私も震災の記憶は遠いものになりつつある。20年という年月は、忘れてはならない記憶を風化させるのに、充分な時間に違いない。 副学長は語った。“南海トラフが動いたら阪神淡路大震災の被害どころの話ではおさまらないよ!今、災害を防ぐ備えをしておかなければ…、19年前の震災の恐ろしさを知っている者が、それを越える地震の備えをしないでどうする?先ず自分の家の耐震対策をちゃんとすることを忠告する。家が無事であってこそ…はじめて次の行動ができるのだから…。” 昼から、友人のブログを見た。今朝の追悼式の参加の様子が写真とともにつづられていた。 私も、遅ればせながら黙とうをした。 2014年1月17日 |
昨日、清荒神さんにお参りに行った。毎年母を連れ、車で行くのだが、昨年母が手術をして疲れやすくなり、また寒さも厳しいとのことで今年は一人で参拝した。 線香の煙を体の悪い部分に手繰り寄せ、古いお札を納め、鈴やドラを鳴らし、観音様?に水をかけ、銅像を撫でまわし、あらゆる賽銭箱にお金を入れまわり、そして新しいお札を買う。その後参道の露店で干し芋を買う。いつもと同じ…去年と同じ行動をこなし、あらゆる日本の神仏が祭られている宗教のテーマパークを後にした。 私が、体が弱かった子供の頃、祖母は私が元気になるようにとの思いを込めて、私の身代りのお地蔵さんを荒神さんに納めたと聞いた。だが私はその地蔵を見たことがない。 普段、氏神様しか参らない私が、清洲荒神さんには参る理由の一つがそこにある。 今では、特に体で悪い部位はなく、荒神さんのご利益のお蔭かなとも思ってみたが、それより祖母が私の健康のために寄せてくれた強い願いのお蔭に違いないと頭を巡らせていると、久しぶりに祖母の顔が鮮明に思い出された。 来年は母を連れて来れるだろうか? 催事記の一つとして、私はまたここを訪れようと思う。 |
昨年の暮から、軽い風邪の症状が続いており、咳がとまらない。 出かける時は菌・ヴィールスをまき散らさないように、それと電車のなかで咳したらみんなに悪いし、いつもマスクをしている。 風邪の予防策で、世間では昔、第一にうがいの大切さを説いていたが、最近は手洗い励行を盛んに言い始めた。順番からして先ず手洗い、次にうがい…という順番のように思う。 風邪は、目・鼻・口と言った粘膜質を通してうつるようだが…、鼻は鼻毛を剃り過ぎない限りある程度防御態勢が整っている。口も危なそうだが、無暗に嘗め回ることもなかろうから、それほど危険ではない。だから最近うがいが予防策の二番手になったのではなかろうか?最も危険な部位が目…電車のような病原の巣窟で吊革や手すりを触ったあと、目をこするとかなり危険に違いない。ひょっとすると眼鏡をかけている人のほうが風邪ひかない…なんてデータがあるのかな? ともかく、この季節、手で顔を触らないにこしたことない。 はやく、風邪なおして、インフルエンザの予防接種を受けなければ、昨年は接種したけれどA型にかかったけれど…。 それと、もうしばらくしたら花粉症対策せなあかんし…。 あー風邪、はよ治さなあかん。 |
昨年秋に30年ぶりにアメリカの片田舎を訪ねる旅行をした際、2日間、車の運転で私を案内してくれたリムジンサービスの会社の社長に、車中で私の本を見せたら、その本を自分もほしいと言ってきた。しかし余分がなかったので日本に帰ってから送ると言って別れた。 私は戻ってすぐに発送したのだが、その後音沙汰なく、社長は少し調子がよさそうなところがあったから、きっともう連絡はないものと諦め、ちょうど昨日の夕方、リモの会社を紹介してくれた知人に残念だが返事がないのでがっかりだ…と世間話のついでに話した…ちょうどその夜、家のポストにアメリカからの便りが紛れていた。 なかには社長からの‘昨年末、いらなくなった自分のゴミ置き場のなかに私の本をみつけて驚いた。手紙が遅くなり申し訳ない。’と言う書き出しの手紙が入っていた。 ゴミ置き場のなかに忘れ去られていた…という表現に私が抵抗あるかも知れない…なんて配慮が微塵もないことがよく分かる。ともかく私の本はゴミ並みか…なんて、すねずに、単純に便りを喜ぶことにした。 心のなかの小さなモヤモヤが、一つ消えた。 次回の旅行でも、やはり彼の運転する車に乗ることになるだろう。 |
私は化粧の厚い人は、あまり好きではない。 色の黒い人が白くなり、目の小さな人が大きくなり、鼻の大きく低い人が小さく高くなり…、私の好きな作家で、だまし絵で有名なマウリッツ・コルネリス・エッシャーというオランダ人画家がいるが、化粧というものはいわゆるだまし絵みたいなもので、非現実的な世界として客観視するのは良いが、現実世界のなかでは詐称行為に値するように思うのだ。 なんてことを言いながら、女性の化粧にあたる髭を生やしたりしている私ではある。 なんてことを言いながら、たまに現実のなかでだまされている私である。 少し見方を変えて、シャドーやカラーリングで人格を変えてみせる化粧のテクニックは、だまし絵と同じ類の芸術性があると考えると許せるものがある。 この際、現実世界は騙し騙されの駆け引きが面白いのだと考え方を変えてみようかしら、そしたら、女性と話をすることが、もっと楽になるかも知れんな…。 意識し過ぎかもしれんな…。 |
思ったことを実現しようとするとき、インスピレーションを得て目標を設定する能力と、目標に向かって近づくために道を作っていく能力とは別物で…、 大抵どちらかが欠けている。その場合、自分に足らずのところを他の力をうまく利用して埋めていくことが大切になる。 最近、こんな当たり前のことが身に染みる。 私には地道に道を造りあげる力が欠けていた。 アイデアだけはいくらでも出てきたけれど…、その後に問題がアリだった。 事業の一線を引退し、ある非営利団体の立ち上げのために時間を費やす日々、今のような仕事が昔自分でできていたら…今の自分の仕事を誰かがしてくれていたらなどと後悔が浮かぶ。 アイデアだけでは、なにも掴めない。 地味な仕事である。一つ動けば二つの仕事が生まれる。 今からでもいい…コツコツと、動いていこう。 生まれ変わって事業家を目指すために… …なんて…思っちゃうのだ。 |
時間のありあまる人生と、足らない人生と…どっちが楽しいかな? 時間のありあまる人生と、足らない人生と…どっちが有意義かな? 時間のありあまる人生と、足らない人生と…どっちの人生を選ぼうか? 時間のありあまる人生と、足らない人生と…かなりスピード感が違うぜ。 幸せってなんだろう? 満ちたりた人生って…本当に幸せかな? 不足し過ぎても、ちょっと辛いし…適当に足らずの人生が、生きごろだろうか…。 そお…適当、適当…。 こんなことを考えている僕は、この人生を生きた証を残せんやろな。 まるで10代の少年みたいやな…僕…。 |