昨日は、教授といっしょに大学病院の精神化病棟を訪ねた。震災の翌年に他府県から寄贈されたと聞く樹木の生育状態を確かめに行った。精神科病棟なるものの敷地内に初めて入ったが、植えられていた場所は、周囲に新しく建った建物の陰になって樹木にとっては良好な環境とは言えない状態であった。 病院の職員の人達も我々が訪ねて行かなければ、その謂れを知る人もおらず、忘れ去られた樹木となったことだろう。 病院を出て樹木が寄贈されるきっかけになった震災で焼失した病院を訪ねてみた。心当たりの場所には10年ほど前に建った新しい病院があったが、受付で聞いてみても震災の時の様子を知る人もなく、その後医師会、警察、消防署等訪ねてみたがこれと言った成果は無かった。思い切って当時からあったと思われる商店に飛び込んで聞いてみると、確かにこのあたり一体は震災で焼け、以前あった病院は焼けたという。その後病院の近くを通る年配の人に当時の様子を聞いてみたが、思うような答えは返ってこなかった。 建物は新しくなり、人は死に、記憶は受け継がれない。 20年前の記憶が町から消えて行っていると思った。 |
昨晩、マダムの店のボジョレー・ヌーボーの会があった。21日に解禁されてしばらく経つが、30名ほどのワイン好きが集まった。 以前から私のことを“ドン・キホーテ”と呼ぶセレブのマダムが私の横に座った。彼女はいつでもスポットライトの中心にいないといけない人だから、よく知っている人はうまく彼女を持ち上げる。私も適当に彼女の方に話題をふっていたのだが、同じテーブルの他の人たちが傲慢にも見える彼女の振る舞いに、面白くなさそうな顔をしはじめたから、後半は私がセレブのお相手を買って出た。 彼女と真剣に話をしてみると、純粋で美的感覚に優れ、素晴らしい直感力を持っていて、ともかく興味があれば、どこへでも訪ねていくし、誰とでも臆さず話をする素敵な人間に思えてきた。 自分のことを棘のない薔薇の花だと例える彼女は、確かに人を傷つけるような棘は、持ってないように思えた。 会が終わり表に出て、今日もまた・・・・・“どうして私のことをドン・キホーテと呼ぶのか?” 聞き忘れたことを後悔した。 棘がなければ、悪い意味ではないと思うのだが… |
ある日以来…私のことを嫌いになった人がいて…、その日を境に挨拶しても無視されるようになった。私が若かった時には、同じように挨拶もかえらず、目もあわせてくれなかった女性がいたが、彼女の場合、数年間経って私の目の前に表れ、じつは私に好意をもっていたと告白されて、びっくりしたことがあった。だがしかし、今回の相手は70歳の男性で、私には男色の気もない。 きっかけになったやりとりには心当たりがあるが、どう考えてもそこまで嫌われるほどの内容ではなかったように記憶する。 彼とは利害関係があるから、今のままではおさまらない。かといって第三者を立てるほどの事でもないし困ったものだ。 まるで、駄々っ子のようである。人間年をとると子供にもどると言うが、そう納得してしまえる関係ではない。 もうしばらくしてから、声をかけてみようと思うが、彼の態度から察する根の深さをみていると、いまのところ良好な関係にもどる自信がない。 自分では気が付かない一言で、私が彼の自尊心を傷つけたのだろうか? 人間の感情は恐ろしくデリケートなものだと溜息をついた。 |
人生のなかで、一番幸せな時間を生きていると思える私は、差し迫って決断し努力が必要なこともなく、適当に軽い愚痴も言いながら一日を過ごしている。このような人生の欠点は生きる目標が不確かであること…。つい数か月前まで明確だった目標は、いつの間にか頭の片隅に追いやられている。まるで高温多湿な閉鎖空間のなかで腐りが始まったような感じだ。 足らない。なににかが足らない。幸せに浸るということは腐敗していくことだろうか? 本当の幸せとは、自分に足らないものを、努力し継続し、一つ一つ埋めていくことなのだろうか? そう思うと、今の幸せがまやかしに思えてきた。 幸せとは浸るものではなく、つかみとるものだと、自分に言い聞かせる。 |
自己責任とは ・青信号…気を付けて渡れ ・黄信号…気を付けて渡れ ・赤信号…気を付けて渡れ と、言うことだと思う。 青で渡って、はねられることだってあるのだから ただ信号を見て渡るように教えることは罪だと思う |
昨日、スコップを持って坂道を登っていたら、カフェを経営しているフランス人から、“今日も異人館の前でファーマーね…!”とからかわれた。 その通り…私は異人館の前で先週末に植樹されたオリーブの樹の周辺土壌の水はけをよくする作業に向かうためにカフェの前を通ったのである。 現場で教授と落ち合った。異人館の館長と企画屋さんと3人で土を掘り起こしていたら、教授が“今日は、このくらいにしておきましょう。○○さん(私)以外は作業着の準備をしてこなかったようだし…。”私は思わず先生に返した。“先生、これ(今日の服装)は普段着です。作業着ではありません。” 私の普段着がファーマーに見えると言うのだろうか? 私の生活習慣が、徐々にファーマー化していくことに、少し恐怖を感じた。 |
私のスマートフォンの調子が悪く、勝手に再起動を繰り返すやら、突然電話やメールの登録リストが消えてしまうやら、電話の途中で切れてしまうやら…、ごまかしながら使い続けようという限界を越えてしまった。 新しいのに変えようと思う。使ってみてスマートフォンはあまり私向きではないようだから、思い切ってガラ系の携帯電話にもどすことにするつもりだ。 そこで、今悩んでいるのが、携帯電話とアイパッドにするか、それとも電話と薄型のノート型のパソコンにするかである。 なんでもできますという機能凝縮型の流れから離れ、私はそれぞれの秀でた機能を分化して持つステップに入ったのだ。 思えば、私がスマートフォンに変えた理由は、ファッション的な要素が強かったし、私はまんまと業界にしてやられている。 スティーブン ジョブスの凄さを、こんな風に思い知るのだ。 |
以前気になっていて、一度お会いしたいと思っていたけれど、自分から訪ねていくことを少しためらっていた人から、今日…市の都市計画課を通して、あちらのほうから私に会いたいと言ってきた。 有難いことだ…と思った。 以前素敵な人だと思っていた人に、今日…久しぶりに出会った。だけれど以前のように素敵には見えなかった。 私が変ったのだろうか?その人が変わったのだろうか? 出会いというものは、きっと必然に違いない。 その時々で、本当に必要な人に出会えるように…今日は、思った。 |
今朝、町の婦人会の会長に呼び出され、ある団体の町の施設利用について愚痴を聞かされた。 その団体に町の会がうまく利用されてしまうことへの危惧をとうとうと語られたのである。 会長から聞いた話をもとに、 利用されたくないなら、そうなった時の、会の対応を最初に明確にしておき、 どうにかして共栄できるように相手をコントロールする道を探ってはどうですか、アドバイスした。 すると、とても整理できた…と、言って納得するのである。 それにしても、みんな、どうして私を巻き込むのだろう? 私には関係ない事なのに…。 私に頼めば、断らないし、うまく話をまとめてくれるとでも思っているのだろうか? これから、私が身につけねばならないことは、うまくお断りする術…だと、しみじみ思うのである。 |