“フェアトレード”に関わるある東京本社の会社の人たちと話をする機会を持った。そもそも私は“フェアトレード”という言葉の意味を知らなかったので、別れた後で調べてみた。すると下記のような説明があった。 “フェアトレードは、世界から貧困をなくすことを目指す活動です。弱者(発展途上国の人々等)の作り出す安全な商品を公正な対価で取引することで彼らが安心して働ける場を作り出し、貧困から抜け出す手助けをすること。フェアトレードは、寄附ではありません。途上国の人たちに支払うお金は、商品の代金であり、賃金なのです。”とあった。ネットで出会った人たちの会社を検索してみると、社長がイギリス人の46歳の女性で、雑誌社の社長へのインタビューが載っていたので紹介すると、日本でフェアトレード活動がどの程度認知されているかの問いについて、「日本ではフェアトレード商品を購入することで後進国の人々を支援するという考えはまだ薄く、商品そのものの素材、色、デザインが良くないと買おうとする人が少ない。」と答えていた。私も理解が無かったから大きなことは言えないが、このような動き運動は日本では世界から遅れて東京で認知され、東京から数年遅れて関西で知られるようになる。この流れは20年前に関西ではまだ知られていなかった“再生紙”と言う言葉がやはり世界から遅れて東京で情報に敏感な人々に認知され始め、ひょっとすると10年くらい遅れて関西の一般人にも知られるようになったと思う。 縁あって知り得た人々・運動・活動のことを、今日を機会に理解を深め、少し世界標準で考えられる人間になるように心がけたいと思う。世の中の流れは思っているよりも健全である。 |
ローストビーフを作ってみた。ブロックの肉を近くのスーパーで探したが、この近辺の人に需要がないようで売っていない。仕方ないから安いシチュー用肉の小さな塊で代用することにした。家のオーブンは壊れているので使えない。だから全面にタレ(オリーブオイル・ワインビネガー・塩・胡椒・ローズマリー)をさっと浸けてフライパンで表面に焼き目を付けた後に、クッキングホイルに包みジッパー付のフリーザーバッグに入れストローで空気を抜き沸騰しない温度で約10分湯せんする。それで冷まして出来上がり・・・肉が堅く味が薄かったが、初めてにしては、まぁーまぁー、ぼちぼちの出来。65点くらいの自己評価。次回の料理時には、味を浸み込ませるために前日から浸け込み、もう少し焼き色を付けようと思う。それと湯せんの時にクッキングホイルで包むのは止め、タレを浸み込ませたペーパータオルを使用するつもりだ。それらの修正をおこなえば85点くらいはとれるかな・・・オーブン無しで肉も高くないものを使用するとすると充分合格点。 たまにする料理、改善を繰り返す料理は刺激的で・・・楽しい。ただ毎日やりたいとは思わない。毎日料理をする人は大変だ。 |
ギターの先生から不思議な話を聞いた。数年前に理工系の優秀な学生が教室に習いに来ていたことがあり、レッスンが進んでいくうちに、左手で第1弦の第1フレッドを人差し指で押さえ、第4弦の第3フレッドを中指で押さえ、第2弦の第3フレッドを薬指で押さえて右手で4弦・2弦・1弦・3弦・2弦・一弦と弾き、続いて中指だけを離して同じように弾く。この簡単な中指だけを離すという動作が彼には3ヶ月経っても出来なくて、先生が「あなたは、ギターを止めた方が良い。」と言ったらしい。すると彼は「本当に止めてもいいんですか?」と言って教室に来なくなったそうだ。彼は半年後にぶらりと教室に現われ、その後の生活のことを先生に語ったそうだ。先生のダメ出し以来、人生が一変したらしく、目の前が明るくなり、初めての彼女ができ、猫背が改善し、きつい近眼が治ったというのだ。競争に勝ち抜いて来た彼には、それまで途中で諦めるということは絶対有り得ないことで、ギター教師からの一言によって初めて人生のギブアップを経験したらしく・・・諦めるということを知って、肩から力が抜け人生がうまく回り始めたと言いに来たそうだ。それ以来、先生・生徒の関係ではなく、友人としての交流が続いているらしい。 よく出来た話に思える。この話の本質をどうとらえるべきか・・・諦めるということも時には大切だとくくるか・・・入りすぎた肩の力を抜くことで新しい未来が見えるとくくるか・・・近眼が直ったなんて関係ないのと違う?と思うか・・どう考えるかはあなたにおまかせします。 |
誰かに教えられた事や、自己流で身についた事が、少し違った発想の環境下では、間違ったやり方だと指摘を受ける場合がある。それまでに正しいと信じていたことが新しい環境下では、正しくないと判断される場合がある。時間をかけて正しいと信じ覚えたことが返って邪魔になって新しい環境からはじき出されてしまう・・・悲しいことだ。そこで立ち止まってしまうと、なかなか次に進めない。だから、そんな時は今まで覚えたことを捨ててしまうのではなく一度自分の懐にしまいこんで、一から新しい環境のやり方を身につけることを薦めたい。ゴールへの道は一つではない。最短距離を目指さないで少し遠回りしてもいろいろなことを経験してみてはいかがだろう。一応両方のやり方を身につけて、その後に自分のベストの道を見出せばいいのではなかろうか・・・そのくらいの姿勢で臨めば、結局最初に戻ることになったとしても、より自信のもてる自分のやり方が見つかると思う。 私の自己流のギターテクニックが、初めて教師について教わる時に小さな障害になっている。難しいことだが、私は全くの素人として今教えられたことだけを繰り返すことに努めている。いつか自分流のギター奏法を確立するために・・・ |
物事を理解するとき、頭で理解する場合と、感性で納得する場合とがあるように思う。頭で理解する場合は計算とか合理性という判断基準のなかで人に説明できる答えが必要である。反して感性で納得(敢えて理解と言う言葉を使わないほうがいいのかも知れない。)する場合、理屈は考えない方が良い。なんとか理屈で説明がついたとしても、そんなことは考えない方が良い。例えば同じ職場に自分と直感的に相容れない人間がいた場合、何故気に食わないかを頭で納得しようとすると、そう考える自分が嫌になる。人に説明する必要もない。だから気に食わない人間は対面で見つめないで、客観的に接していよう・・・第一印象で嫌な相手には感性が合わないという結論以上の納得は必要ない。自分が嫌いな人間は、感性が合わないと一言で括ってそれで終わりにすること・・・頭で考えてはいけない。イライラするだけ・・・損。 頭で考える人生よりも、感性で突き進む人生のほうが賢明に思える。人は考える生き物ではないように思う。考えて間違った結論を出す生き物だ。直感を鋭利にする訓練をされることをお薦めする。その一つの方法に同じことをずっと続けないこと・・・適度な間隔で心と体をリラックスさせる必要がある。忙しくても一日三度は深呼吸・・・ |
先週の土曜日とは打って変わって昨日のギター教室はとても静かで、2階の教室には、誰もおらず、先生もおらず・・・先生が顔を出し「ちょっと待ってて!」とおっしゃり・・・20分程1人で練習していたら、おもむろに先生現れ、「なかなかうまいと家内が言ってたよ。1階にはよく聞こえるんだわ。」とおっしゃり・・・「えっ・そっ、そうですか?」と詰まりながら答えた。そう言われて悪い気はしない。先生続けて「爪どぅ?」とおっしゃり・・・右手を差し出すといつものように私の爪をやすりで砥ぎ始めた。作業しながら「ええ爪してるね・・大きくて平らな爪がいいのよ・・・ギター弾くには・・・ギター弾きの爪やね!」とおしゃり・・・「えっ・そっ、そうですか?」とどもりながら答えた。昨日は非常に沢山の刺激ある演奏法を教わり、私の受け入れ能力がいっぱいになったので、先生に「今日はこれ以上の練習は私の限界を越えているので、もう入りません。」と言って、二人で“感性”についての話を始めた。先生の話を聞いて、私の考えを言って、先生が刺激を受けて質問してくるので、私の思いつきを言って・・・2時間も経ったので帰ろうとすると、先生が「あなたと話していると、イメージが広がって楽しいし参考になるわ・・・今日の話もまた使わせてもらうわね・・・こっちが、授業料払わんといかんみたい。」とおっしゃり・・・今度は即座に「えっ・そんなぁ・・・。」 後で思うに、あの時「じゃーっ、授業料は相殺しましょう。」と言ってみれば良かったと後悔する。私を気持ちよくして教室を送り出した先生の方が上手だったと納得した。 |
二日前だったか、大雨だったので、普段行き帰りで通る山道は危険に思い、いつもと違う道(トンネル、有料道路)を利用した。昨日は雨も上がっていたので山道を通るつもりで家を出たが、その道の入口のところで“山崩れのため通行止”の表示板と誘導員に止められ、迂回して、やはりトンネルを通った。復旧しているだろうと今朝も山道に向かったが、やはり通行止め・・・誘導員に聞いてみると今日中に復旧の予定だが、明日以降になるかも知れないとのこと・・・何年も山道を通っているが、これほど復旧に時間がかかることは無い。いったいどんな崩落があったのだろうか、新聞には載っていない。 雨の時にこの山道を避けることは、悪い予感というよりも、確率の話になるんだろう。私も普段、確率を無視して目の前の道を選択することがあるが、こんなことがあると、やはり危険度は考えないといけないと思う。しかし成功確率が低くても突っ込まなくてはならないこともあるし・・・そんな時は、自分の信念というか、神頼みになるかな・・・神様とは仲良くしとかなくっちゃー。 大雨の時に、山道を避けた事は、自分を褒めようと思う。それと同時私の知らない私をお守りくださる方に感謝している。 確率と直感の両方をうまく利用して人生を乗り切りたいものだ。 |
人間には、耳で聞こえる音の範囲が限られていて、良く聞こえる人で20Hz~20000Hzと言われている。ただ20Hzの音を続けて聞かされると音としての認識なくして、気分が悪くなったり、20000Hzの音を続けて聞くと、やはり音としての自覚なくして不眠症になる人があるらしく、人より優れた聴力を持つゆえに生活に支障をきたすことがあるそうだ。人間は、それぞれ自分の多くの気が付かない能力を持って生まれていて、知らぬ間に、その能力の影響を受けて幸せを感じたり、苦しみ悩む生き物のように思う。生きるうえでのテクニックとして、与えられた能力を自ら低下させてみたり、自分の能力を忘れ去った自分を演出することが大切かもしれない。例えば聞こえすぎる聴力をもった人は、夜眠る時に耳にマスク(?)を付けてみるとか・・・優れた頭脳を持つ人が、たまには馬鹿な真似をしてみせるとか・・・ 音を自覚させないで、意識的に人の感情をコントロールすることは可能だと思う。例えば重低音を流して、心理的な圧迫感を与えた後で、急に音を止めてオゾンいっぱいの空気を吸わせ、このとき効果的な言葉で誘導すれば溢れる幸福感を反動で与えたりする事が可能かもしれない。ひょっとするとUSJのアトラクションや宗教儀式にもこのテクニックが用いられているかも知れないなぁー。 さて、最近何故か気分が重たいと思う人がいたなら、身の回りに自分の耳には聞こえない周波数の音が増えてないか、調べてみてはいかがだろう。オゾンを吸いに山に行くとか、潮風にあたりに海に行くとかの気分転換が大切なのは、ひょっとすると余計な音を聞かない時間が大切だと言う事かも知れない。 |
昨日、尊敬するカメラマンから電話があり、久しぶりに出会って話をした。彼は建築カメラマンとして日本で三指に入る。ルーブル美術館のガラスのピラミッドを設計した世界的建築家I・M・ペイとも交流がある。彼との初めての出会いは23年前・・・その際彼の仕事に初めて接した。建築写真と言うものは、スタジオのなかで照明機材を駆使し人工の光のなかで撮影するわけではないので、撮影に適した場所・季節・天候・時間を探し待たなければならない。言い換えれば地球というスタジオのなかでの仕事と言える。そのため彼は撮影までに多くの時間を費やす。カメラを持たずに撮影場所を探し求めて歩く。隣のビルの屋上に上ることもあるし、人が入ったことの無い藪の隙間に撮影ポイントを見つけることもある。晴れの日を(場合によってはそうでない日もある)待ち、太陽の動きがどのような軌跡を辿るか頭に叩き込む。彼の姿勢に接して仕事というものが、形にする前の準備が大切だと知らされた。準備が整っていれば撮影は一気に終わる。私は彼の仕事を教訓としたが、これまで幾つもの思いの達成できない仕事をしてしまった。なにかが足らなかった。今現在、教訓が役に立っているのは料理くらいだろうか・・・ さて、なぜ彼が私に電話してきたか、知りたいと思われたであろうか・・・実は、あまりにも些細なことで、ここに書くまでも無い。どうしても知りたいと思われる方にはいつか機会があればお話したいと思う。 師と思える人から、些細なことで電話をもらえる自分を幸せに思う。 私は、これからも彼の姿勢を目標として、これから作り始める私の作品に活かしていこうと気持ちを新たにした。 |
今日も、山道を通って会社に向かった。しかしいまだ“通行禁止”。 山を抜けて町に出る道は普段私の頭のなかに四つあって・・・曲がりくねった山道。有料高速道路と有料トンネルを抜ける道。有料のトンネルを通る道。鉄道に沿って国道を通る道。 トンネルと高速道路を通るルートは23分で目的地を結ぶが片道\1,100の料金がかかり、時間的余裕がない時以外、普段からあまり通らない。45分かかる森林浴がてらにドライブ気分を味わう曲がりくねった山道が一番のお気に入りだ。大雨以来ここ数日朝は、渋滞の激しい国道を通り、帰りは\200.の通行料がかかる山の中腹を抜けるトンネルを通っている。“通行禁止”の解除が待ち遠しい。 今暇だから、他のルートがないか考えてみたら、四つのルート以外にも他の町へ迂回するルートを入れると、どんどん新しいルートが思い浮かぶ。飛行機は無理だけど町への行き方に鉄道という手段もあるな・・・ そう言えば地震の直後は、考えられない遠回りをして通勤する人も多かったし、私も重たい荷を担いでひたすら歩いたものだ。今はできんかもな・・・ いざとなって、世の中時間と金銭的制約を外せば、道はいろいろあるもんだ。 普段通り慣れない渋滞の国道を、いつもより少し早く家を出ていつもと違う景色を楽しんで明日も車で通勤しようと思う。歩いて行くより楽だしな・・・腐っても仕方ないしな・・・楽しく生きたほうが得(?)だしな・・・ |