人生について迷いが生じた。 そんなとき、ふと禅寺に行こうと思った。(自分は無信教者だが) 阿蘇に金剛宝寺なるところで修業体験の受け入れがあった。 長期の出張帰りの折、次の仕事まで間があったので有給をとって 出かけることにした。(有名になった黒川温泉も程近い) 着替えを少々もっていざ向かう。到着すると2~3の女の子グループ がいた。男はひとりだがまあいい。 周囲は茂みに囲まれて、下界とは隔離されている。(雑音が入らず丁度いい) 毎日は朝のおつとめ(読経)、掃除から始まり、写経、禅、炊事と宗教行事 、生活行事をする。(昔から炊事だけは苦手なので、作るのは女性陣に任せて 洗い物ばかりしていた。) 昼の行事は日替わりで異なり、世話してくれるお坊さんがその日の予定を決め てくれる。(体験者に飽きさせないようにその日の行事を決定。) 普段しない座禅は足に堪える。それでも一時のことなので踏ん張るも、すぐ つってしまい我ながら情けない。 (本当は棒で肩をパチンと叩かれるあの修行をイメージしていたが、ソフトな 体験という感じだった。) 修行?のなかに水行なるものがある。来院前にどこかの広告で見たのか一人の 女の子が水行をやりたいという。 敷地内のすぐ横に小さな川があり、そこで男性はふんどし姿、女性は木綿の上下を 纏い川に浸かって読経する。(見ず知らずの女の子の前で露出するのは、水泳をやってた とき以来だ。) さすがに夏といえ山の水は刺すように冷たい。なんとも何を喋ってるか分からないうちに終わる。 次の日また別の女の子グループが来た。また、水行がやりたいという。1日で懲りて 勘弁してほしいと思いつつ参加しないわけにはいかない。 がまんがまん、帰りにあったかい温泉にでも入ろう!と自らを慰めつつ水行終了。 (雑念と一緒に精気も流れたのような) 食事のときお坊さんが肉類を口にするのが善か悪かの話があった。(宗派ごとに見解は 違うのだが) 自分たちの宗派?では生きてる動物を殺生し食べるのは非で、死んだもの を食べるのは良とのことだった。 (あと付けの単なる理屈としか思えないのだが。 話はそれるが人は結果に対して、自分 の都合のいいように後から解釈を付け納得させる傾向に陥りやすいと何某かの学者が言っていた。) オプション?世話役が隣接する山の頂上まで行くが自由参加なのでどうですかという。 全員行ったがこれがまたハードだった。 途中で拾った木の枝を杖にして急斜面の獣道を一気に駆け上がる(数百mどごろではない)。 体力には些か自信はあったが、さすがに堪えた。何度も水分補給のための小休止を挟みながら登頂。(お坊さんで1、2日おきに散歩代わりに行く人がいるらしく感服) 周りは木々、茂みだらけで普段、人跡がないところだ。しかし、阿蘇の周りの山々が見渡せて絶景だ。 日々のおつとめでは都度、お坊さんと共に袈裟を纏って礼拝だ。ひと時、厳かに身が引き締まる思いとなる。袈裟は冠婚葬祭で何気なく見るが、着せられてるという感じで体が重かった。 終了後、自分自身の変化は感じなかったが、世の中の知らない範囲を体験できたという意味でいい経験だったのか。本格的な山篭りとはいかなかったのだが。 |
つい先日世界遺産の類の番組を見た。 世界各国の歴史的建造物、史跡を短編紹介していた。 ヨーロッパ編は人工の芸術的建造物のシーンが多い。 アジアに限って比べるとまるで違う。 少ない体験のなかで肌に感じていたことだか、キリスト教中心とした文化と仏教文化の相違だろう。 よく狩猟民族と農耕民族といって喩えられことがあるが、明らかに芸術性の相違がある。 何か?民族性もあるが大きな点はその風土にあるだろう。初めて足を踏み入れたときに直感したのが、時間の流れだ。何か違う空間に紛れ込んだようにゆっくり落ち着いた流れだ。 見るもの全てが新鮮だ。こういう場所で生活すると心豊かになり、かの繊細で優雅な芸術を生むのであろう。 わびさびの世界とはまるっきり異なる。(それはそれでいい。) また、アジアでは何処も大差なく、皆せわしく不断なく活動している。 (本当の意味で落ち着いたと実感がもてたのは唯一ヨーロッパを訪れたときだったような気がする。) 残念に思うことは京都などの一部は古い町並みを残したまま生活しているが、アジアの何処も総じて壊して造ることしかしない。 一方は自分たちの歴史を残しつつ、何百年(何千?)も街のかたちを残しそこで生活をする。(まちがっても日本の家のように新しく合理性の高いものを良しとせず、彼らは自分たちが住みやすいよう内装に手を加え生活している。) 自分たちの歴史・文化に畏敬を持って生活している。 自分には芸術のセンスが全くないのだが、身を置くと素人ながらも違いは感じられた。 (このため文学、音楽他 芸術的なセンス、趣味を持った人にはとりわけ尊敬の眼差しになる。) 有名なフランダースの犬というアニメ番組で、主人公のネロが教会にあるルーベンスの絵画に憧れていた。 ちょっとした教会、城に入ると、よく分からないが注意してみると何時間いてもあきない。 余談だが南の島々、アメリカ(一度仕事で行った)など好んで行きたいと思はない。 残念ながら感嘆すべき長い歴史と文化がないからだ。 また、街の夜景でどこそこがいいだのいわれるが、その時のもの珍しい情景だけだ。 数々見たが心に残らない。自分にとっては飾り付けしたクリスマスツリーのようなものだ。 全く別の感覚をもた文化圏としてやはりヨーロッパには魅力が多い。 老若男女関わりなく、「無理してでも騙されたと思って一生に一度行った方がいい」とよくひとに奨める。 閑話休題、ヨーロッパは国が陸続きのため時間にゆとりがあれば列車でいろんな所にいける。(国際間列車が走る為、国境付近でパスポートを見せるだけだ。) 訪れたときはウィーン(オーストリア)に行きたかったのだが、時間的都合でドイツとの 国境の町ザルツブルグで留まった。(なぜか芸術音楽の雰囲気に浸りたかった。) 恥ずかしながらかのモーツワルト生誕地とは知らず。 さすがに芸術の街だ。厳寒の中、路上でピアノの弾き語りをしていた。(息を吐くと正面が真っ白になる上、霜で先がぼんやりしているほどだ。)もちろんクラッシクだ。(なんだろうこの感じ。街全体が芸術だ。日本の路上ギターとは比較してはいけないが、雲泥の差だ。) と、横に巨大なビールサーバのようなタンクに人が群がっている。 近づいて覗き込むと、紙カップになにやら湯気をあげた濃紺の液体が入っており皆美味しそうに飲んでいる。(こっちの人はグレープジュースを温めて飲むのが習慣なのか?) 見たものついでにひとつ飲んでみよう。一口!何か違う。もう一口。 ワインだ。濃い赤の。 こっちにきて数々のビール、ワインを味わったが、こうゆう飲み方は初めてだ。 意外に美味い。やはりサプライズが多い。 (ちなみに朝は列車の車内販売で硬いパンとビール、夜はビールと何かだったので一日 酒浸けだった。) 今日はこのへんで。 |
台湾。世界で最も親日的な国。かれこれ十数年前より数え切れないほど訪れている。(もちろん仕事だが) 中華系民族特有の自己主張の強さ、実利的なところ、バイタリティの 豊かさ様々な面を持つ九州ぐらい?の島国だ。 ちょうど今は旧正月(ちなみに近隣アジアでは西暦正月は日本だけ)真っ只中だ。 日本同様、帰省大移動が始まる。ただしこの時期ばかりは高速道路の通行料は無料開放される。(もともと低料金だが。商業主義一辺倒ではなく日本もこうゆうところを見習ってほしい。) 最近では先進国並みのマナー、モラルの意識を持つようになってきたが、 まあ最初のころは酷い点も多かった。(今の中国ほどではないが) そこで今回は交通事情?を交えてちょっと。 街の交通手段としてのタクシーは白タク多く、公共のものもメータがない、あっても使用せずぼったくる。(それでも何度か行くと相場が分かるのでこちらから一方的に支払いを済ませることも多かった。) 運転マナーも日本のように優先規則有無ではなく、早い者勝ち的な走行だ。お客さんを乗せてるいう意識が薄く、安全運転とは程遠い。(総じてアジアのどこも大差ないが、最近はかなり改善されてきた。) 当時車載エアコンのないもの、周りのフレームがさびなどで腐りかかったもの傷へこみだらけの車が多かった。(日本車は関税100%で単純に日本倍額でしか手に入らず、非常に高価だった。) ここ数年は洗車場が普及しており驚いた。 ある夏場、助手席で暑いので窓を開けていると、いつも通り激走して路肩駐車している細い路地を進んでいた。突然ガシャンという音と共にガラス破片が振り込んできた。 何事かと思い我に返るとどうやら駐車している車とドアミラーが干渉したらしい。 運転手はいったん停止するも何もなかったようにすぐ発信してしまった。 文句を言うと彼はきょとんとして不思議そうにこちらを見るのであほらしくなってそのまま支払いをしてでた。 (事故だけは未だに多く、特にスクーターとの干渉事故など日常茶飯事だ。なお、スクーターは圧倒的に数が多く、専用道路があるほどだ。) ちなみに、助手席はレールのないジェットコースターのようで日本人は誰も座りたがらない。 とある通勤時のことだ。送迎用の1BOXで移動中、うつらうつらしていると「ドン」を言う音にはっと目が覚めた。停止したので周りを見るとスクーターが1台ころがって人が起き上がろうとしていた。 どうせスクーターが突っ込んできたか、弾き飛ばしたのかと思っていると運転手が出て行った矢先、なにやら起き上がったおばさんが大声で怒鳴っている。ほんの一言、二言いって気が済んだのか、おもむろにスクーターを起こすと何もなかったように行ってしまった。 (たくましいといっていいのか? 隣席の同僚と首をひねりつつ、なんだったんだろと思ったが、また寝た。) あるとき夕食に出かけると途中なにやら言い争いをしている。自転車に乗ったおばさんと車から降りてきた男性が怒鳴りあっている。何があったかは知らないが夕食後また通るとまだ居たが、突然何もなかったようにさっと引けた。(よく分からない?) 世間一般で大阪のおばちゃん云々いわれるが、こちらはその比ではないだろう。 ああ中華系の女性は怖い! |
台湾のちょっとした街にいくと、いたる所で金の装飾品を扱った個人商店を見かける。 道路沿いから見るとまるで欧州貴族の部屋のような眩さだ。 最近は少なくなったが首、腕に身につけてる男性をよく見かけたものだ。 疑問に思ったので、雑談ついでに通訳に聞いたことがある。 台湾は近年、中国共産派との内戦に敗北した蒋介石が先住民(多くの部族)がいた島に 落ち延びたのが始まりだ。 この後、日本、中国による植民地状態があり現在へと至っているが、統治国の 一方的な都合で、ある日突然自分の財産(自国通貨、紙幣)が紙くず化したことがあった。 この苦い経験があり物すなわち普遍的に信用価値のある「金」を財産として持つ習慣に なったそうだ。 また中国古来からの装飾品である「玉」(ぎょく、翡翠)を身に着けている。(まれに水晶も。これらの店も比較的見かける。 玉は金よりも高価) 玉は中国の信仰的要素が強く護符としても用いられてきたものだ。 感化されやすい性分もあって、一時期、お手ごろな水晶に凝っていた。(金は高価だし、 良質の玉は驚くほど高い。手も足も声も出ない。) 仕事後に滞在先周辺の街、休日などは台北に足を運んだりして様々なものを見て廻っていた。 (なお中国系はどこも夜が深まるにつれ賑やかさを増す。) 水晶といっても実に色んなものがある。 現地語(北京語ちなみに台湾での中国語の標準語、別途自国語である台湾語があるがこちらはハングルのようで未だに分からない)がまだ、ろくに読めなかったが水晶の本を2,3冊買って読んでいた。 ここで漢字についてだが難解さ(オリジナル)順に台湾、日本、中国となる。これは 国策として広く識字率あげるための現実の結果だ。日本語はまだ古字の原型をとどめているが中国の簡体字などは象形文字のようで何がなんだか分からないぐらい簡略化されている。 一方、台湾は数十画もあるミミズの集合体のような難解な文字が数多い。 (私事だが親が苦労したであろう自分の名前も、台湾に行くとよく見られて、なにか 親近感が湧く) 右にそれたが、水晶は意外とその種類も多く百貨店などでも売っている。 透明な中に金糸(財運)、緑の草(藻のようなもの)が入ったもの、紫水晶、黄水晶、 黒水晶その他ある。 当時、珍しいものを少しずつ買いあさったが管理が悪いので、今はネックレスサイズの紫水晶が残るのみだ。 (収集癖は学生時代まであった。切手、コイン、シールの類) 玉も2、3点ある。一般的に宝石とされる硬玉(ミャンマー産で深緑色。高価)と軟玉(中国産で透明、白色、淡緑色)がある。 あるとき台北のパーツ街をうろうろしてたときだ。道路脇にテーブルを囲んで人だかりができている。覗き込むと玉を出しては売る、引っ込めるを繰り返している。後で知ったのだが業者向けのせりだ。 何気なくじっと眺めていると、そばのおやじ(かなり年配の人)が話しかけてきた。 まだ片言しか話せなかったのでおどおどしていると、日本語が分かるらしい。 冷やかし半分に眺めていたと言うと、何かほしいものがあれば自分が競り落としてやるという。(このころの年配者は日本語教育を受けた人だろう。学校で習ったといっていた。 過去、日本が植民地化した周辺アジアの国々の中で、唯一台湾が親日的だ。 理由の一つに、中国統治時代の圧制のひどさに比べ、鉄道敷設・教育など日本人の律儀さに好感をもったことのようだ。) 競りの品は中国の象徴である龍を彫ったものも多く、龍は嫌いではないので、指差して落札してもらった。聞くとミャンマー産の一枚岩から採れたものだという。爆破して砕いたなど持ち込まれるまでの話をしてくれた。価値の分からない者には少々高かったが、市価では何倍もすると言っていた。(ヒスイ輝石50%以上が宝石扱いされる硬玉だが、買ったのは硬玉のうち安い方のものだろう。 宝石に分類される深緑の小ぶりなものは、目が飛び出そうな値段だった。) 買った品だがよく見ると透明度があり白・薄緑色をしている。長年身に着けていると石の色合いが変化するそうだ。 買った当初は現地人同様、首にぶら下げ生活していた。 ところが元々装飾物を身につけるのが嫌いな上、重かったのでいつの間にか外した。(首の吊り下げ紐が目立つらしく、理由を説明すると嘲笑にあうことも多々あった。) 関係ないが、身に着けるものでは腕時計も煩わしく思う時期もあり、腰に懐中時計を着けだ時期もあった 今は小箱に眠っている。 今日はこのへんで 気が向いたら、次回は食の事情について |
そろそろあのいまいましいスギ花粉が飛ぶ季節だ。(その後ヒノキもあるが) 子供のころは何も反応しなかったが、ここ数年来いつも悩まされる。 高度成長期の見境のない植樹により浮遊量が増えたのが、主な要因だそうだが 抵抗できる許容量を超えた人も多いのではないか。 人並みに世間で効用があるといわれるヨーグルト、てん茶などいろいろ試して見た。 が、どれも効いたか効かないか分からず症状に変化がなかったような気がする。 本当にひどい時は吐いたこともあった。春先はかかりつけの医者で薬をもらうようにして いる。(ステロイド系は副作用が怖いのでもらわないようにしている。) 東大の著名な学者が言っていたそうだが、医者が正確に患者の病気を判定できるのは 生涯の診断数のうちごく数割でかなり低いそうだ。 ということはかなりの誤診もある。 それもそうだろう。 患者からの聴診、器材といった外からの判断では人の内面に 起こってことを窺い知るに限界があるだろう。 もちろん、論理だって正確に分かる こともあるだろうが。 自分は疑い深いというか慎重な面があるので、ちょっとした事以外の不調で医者にかかるときは、必ず大きな病院で3つぐらい診断を受けるようにしている。 大きな病院は患者数に比例して診断数が多くより正確な判断ができることに疑いの念は ないと思われるが、医者も人なので各人各様に見識が異なると思う。 (実体験に子供のころ腰から下に激痛があったときこと。近くの街医者に行くとレントゲンで見ても異常はないし一時的に痛めただけという。我慢できないので離れた大手の医者 に行くと同じような写真を見て明日から入院しなさいという。 所詮、人の判断とはこん なものだ。) 最後に自分を守るのは自分だ。専門的な判断は依存するとしてもそれを評価するのは あくまで本人の責任だ。 疑い深いとは書いたが、何でも物事を鵜呑みにせず冷静に自己責任で判断することを本意 としている。(判断というのは他人の話を参考にする、調べるすなわち広く情報収集した上で自己決定することだ。) 薬は物心ついたときから、医者からの処方有無に関わらず極力飲まないようにしている。 抗生物質は体内に蓄積されるし、副作用がないともが限らない。その上、人の自然治癒力の障害になることもある。 若かりし日はそれでよかったが、年をとるとそう入ってられない。 不測の事態とならないよう、最近はできるだけ飲むように心がけている。 (以前は薬の本で何か調べることもあった。最近は、便利になり医者にしても病気にしても薬にしても簡単にネットで調べられるので助かる。) 抵抗力は若いころにつけないといけないと思い、心身を鍛えることがあった。 関係ないが猛暑の日などエアコンを最低温度まで効かせて布団を掛けず、裸で寝ても なんともなっかた。冬場にはシャツ一枚で毛布などは使わず過ごしていた。 (悲しいかな今現在そうはいかない。) 子供のことは分からないが小さいころからできるだけ薄着、裸で居させると外の環境に対して抵抗力が増すと思う。 花粉症の話に戻ろう。 やはり一番の防御策は「君子危うきに近寄らず」である。 最近流行の機密性の高い マスクはなかなか重宝する。 それでも体に付着した微粒子に対しては完全には防げない。 別の方法がある。花粉のある環境に居ないことだ。一見非現実的で無茶な話だがある。 幸か不幸か数年来、花粉飛散の時期に台湾を往来していた。正確に調べたわけではないが 原因となる花粉自体がない?少ない。 仕事で現地に出かけるとぴたっと症状がなくなる。ビザの都合で2、3日一時帰国すると すぐ症状が再発する。また行くとなくなる。 よってこの時期、国内ではなく台湾にいたいと思うことがある。 それにしてもつい春先は雨を期待してしまう。 |
最近のレンタル事情について 最近、一部で高級外車、ブランド物といった高級品のレンタルが流行っているそうな。 もちろん誰にでも手に入るものではないし、いいもの?に対する憧れはあると思う。 普段触れることものできないもの、ことを体感できる機会も持つ、願望が一時的に 叶えられるのは喜ばしいことだし本人が納得できるのであればそれでよいとは思う。 もちろん贅沢品が売れなくなっている現状では、売り手の戦略的な意図がありありで 人の興味を誘発しているのは否めない。そこにお金を出す買い手もいる。 で、高級ブランドのバックを数日間借りるのもお手ごろで比較的人気だそうだ。 ちょっとしたイベントに携帯して出かける(男の自分には分からない感覚だが)ためとか。 当人の価値観なのでとやかく言えるものではないし充足感があればいいのだと思う。 その中に近くに買い物かなにかで外出する、友達とのお茶会に1、2日借りて持って行く ための需要もあると。さすがに「う~ん」と思った。 実物を一時的に所有したいがため借りたというなら兎も角、見栄、体裁のためだけなのか。 うわべだけを気にして楽しいのだろうか? 返却という現実に戻ったとき空しくないのだろうか? 素朴に疑問が湧いてしまう。 こうゆう自分も自己満足のためこれまでいろんなお金の使い方をし、そこには明確な目的やちょっとした思いがあった。(後で後悔することもあるが) まあ、これもおしゃれの一環と言われれば返す言葉がないが。(余計なお世話なのか) 器が狭いだけなのか、自分には理解できない世界ということなのだろうか。??????? たぶん一生考えても回答は見つからないだろう。 |
もう過ぎたが、確かクリスマスの時期だ。 周知の通り、欧米では年中行事の一大イベントとしてこの時期を楽しむ。 一度、この時期米国の某大手工場に行ったときのことだ。 いつも通り夜も明けぬうち、眠い目をこすりながら現場に行った。 (当時、向こうの作業者は朝5時ぐらいに仕事を始めて昼の早い時間帯に 帰宅していた。このため、渋々これに付き合わなくてはならなかった。 早く仕事を終わらせて後は家庭サービスなど自分の時間を楽しむとの事) 仕事の進捗を確認していると、何か不自然な光景が目に入った。 おや! 時々、横を三輪車に乗ったメールボーイ(社内便集配のおやじ)が通るのだが目を疑ってしまった。 普通に周辺ラインは稼動しているが、赤い頭巾、衣装をまとったのが平然と横を通り過ぎた。 サンタクロースだ。 思わず噴出してしまった。 しばらくすると、今度は三輪車に乗ったトナカイ(被り物が角のようだったので多分そうだろう)が通った。 なんだろう。今日は平日だし、周りは普通に仕事をしている。自分自身、しばらく状況を理解できなかった。 こんな光景に遭遇したことはないし、決して日本では観ることはないだろう。もちろん実害はない?のだが、これが許されるのがアメリカなのかとつくづく思う。 これがユーモアのセンスの深さ・違いだろう。 ある意味ふざけているが、捉え方によっては感心する。 分野、テーマ問わず講演などうまい話というのは必ず、要所にユーモアが盛り込まれているような気がする。 教養といった他、人間性豊かな人ほどこうゆうセンスが長けているし、人を引きつける。見たり聞いたりするとつい感心する。 やはりどんな環境、状況にでもユーモアは大事ではないか。今更ながら思う。 ただ、いたずらにつまらない話(大半が作り話だろう)を並べた、昨今の風潮・娯楽はいただけない。 ○○首相ではないが、「いかがなものか」である。 もちろん楽しむこともあるし、何でもつまらないと否定するわけではないが、流行か何か知らないが幼稚な笑いといったものが最近とくに多いような気がする。 一度「すべらないはなし」なるものをみたが、明らかにうけを狙った作り話の羅列か誇大話のようで、誹謗・中傷の類の話を面白おかしくしているだけだろう。 当方には珍しく米国人が来客としてきた。(製品チェックのため) 仕事柄、当然中身のチェックは厳しいが、合間にその場を和ませるようなジョークが入ってくる。単調さや一方向に固まりがちな流れの中で、ひと時ほっとする。 (自分でも公私問わずちょっとした事を織り込むように心がけているが。突然、変なことを言いだす思ってのだろう。よく周りは笑っているようだ。) 現状の厳しい環境は専門家が至る所で述べているのでここでどうこう言うことはないが、 彼らは金融危機の震源地の真っ只中にいて、少なからず影響はないこともないだろう。 しかし、見ている限り悲痛な面すら感じられない。(勝手にそう思うだけかもしれないが) どこも周りは深刻な状況だが、現状を受け入れそこに適応していけばいいと自分自身は思う。(楽観的すぎるのか?) 彼らの習慣なんだろうが実際に触れてみると、見習いたいと思う次第だ。 |
今日、話題の日本人が二人いた。 そう、村上春樹氏と中川何某。 かたや表彰式、かたや公務で日本から離れた中東、欧州にいた。 同じ日本人としてこうも違うのか。 中川何某。話題に触れるのもばかばかしいが、なんとも情けない。 もともと欧米人と日本人では体格も体質も違う。 向こうはワインはお茶代わりに飲むほどだし、その他の酒も時間、量問わず飲んでいる。まず、アルコールに対する体の分解・処理能力が比べものにならないくらい違う。 (少し飲んだくらいでは日本人のように酔わない。) それにしても何度となく酒席での醜態をさらしていながら、懲りてないのか。 国内では笑い話で済まされるかもしれないが、世界での大事な会議というのに自制心がもてないのか。(学習能力がないのか) 同じ日本人ましてや要職にある政治家なのだから始末に置けない。 体調不良ならば(幻聴、睡魔ならともかく、呂律のまわらない薬剤症状など聞いたことがないが)、その場を欠席すれば良いだけの話しで苦し紛れにしては往生際が悪すぎる。 言葉にならないほどあきれた話だ。 その一方、村上春樹氏は周囲の外圧を押しのけて、決して望まない環境であえて自分の思いを伝えた。 その言動たるや現地で「詩的」と表現されたり、各方面で絶賛されるほどのものだ。 よく見るブログの一つ(内容は非常に専門的で難解。よく著述・著者を鋭く批評し、人を賞賛するのが珍しい。経済学者)に村上氏を次のように書いていた。 「イスラエル人の前でこのようなスピーチを行うことは、受賞を拒否するよりはるかに困難な決断だ。彼の小説はデビュー作が『群像』に載ったときからすべて読んでいるが、このスピーチは彼の最高傑作だ。よくやったよ、君は日本人の誇りだ。」 これが全てを物語っているように思える。 |
一般に中華料理は火を通す料理が基本だ。 炒、焼、炸(揚げる)、煮・・・など調理法が多種だ。 特徴の一つが料理に使うの油の量が兎に角多い。 訪台の当初、特に油物を敬遠していた時期で数ヶ月間はチャーハンばかり食べていた。他の料理と比べ油の量が少なく、海老・牛肉・豚肉(ビーマンと和えてチンジャオロース)・玉子などと日替わりにしていた。もちろん、お冷サービスなどなく甘い飲み物が多いので仕方なくコーラとセットにしていた。後で触れるが備付けのお茶はとても飲めたものではなかった。 まず鍋もの屋が多い。夏冬関係なく、むっとくる暑さでもお構いなしだ。 鍋といっても美味いだし、味付けスープは少なく、お湯か深紅の辛いスープ(麻ら鍋)に具材を入れ、醤油または胡麻味噌の漬け汁に薬味(にんにく、ねぎ、唐辛子など)を加えて食べる簡単なものだ。(ちなみに、鍋物を火鍋という)日本にある焼肉食い放題のような店も多く、バイキング式のところも少なくない。 かわったところでアヒルの鍋(チェーン店多い)、漢方(こちらは薬草など色んな物が入っており健康に良いのだろうが独特のツンと鼻を刺激する味がする)など。 具材は一般に食べられるものは質が悪く決して美味いとはいえない。 未だに受け入れられないのがトマト切身を温かい中にそのまま入れることだ。 その他には鉄板焼き(文字通り、鉄板の上で海鮮、肉、野菜などを焼いた料理)も多い。セットでモヤシ、キャベツなどの炒め物が付いてくるがこちらの方が味付けが良い。 最近は店が減ったような気がする。 あと麺をよく食べる。(どちらかというと米より多いかもしれない。) スープは日本のラーメンのように味にコクはなく、薄い。スープのだしなどあまりとってないような気がする。面の材料は小麦粉だけではなく、米粉、冬粉(春雨のようなもの)もある。 もう一つは炒め麺(焼きそば)だ。当然ソースではなく油の多い中華味だ 誤解はないと思うが、ちゃんぽん、皿うどんはない。(日本独自のもの) 店で出される料理は味がしっかりしているが、一般には薄味で、味気ないものも多い。 スープにしても鳥が入っているだけの味や、生姜だけの味(モヤシだけの簡単な具材のみ)といった具合だ。(辛いものは別として素材の味が中心の簡素なものも多い。) 基本的には料理をしない女性が多い。まわりに惣菜や弁当屋が多くあり、買って済ませることも多いようだ。朝など朝食屋(サンドイッチ、麺、饅頭など)で買う人が多い。当人らに聞くと「買ったほうが安いから」とか「便利だから」とか言う。 料理の調味料としてよく使うのは塩、こしょう他、にんにく、生姜、ブラックペッパー、唐辛子、オイスターソースなどだ。 ほとんどの日本人がだめなもの。 臭豆腐、香菜、烏龍玉子だ。 臭豆腐。とにかく臭い。喩えようがないが、外国人が納豆に持つ印象いやそれ以上かもしれない。食べる以前に匂いで敬遠してしまう。(感じとしてはきつい腐敗臭) 次に香菜。これは野菜の葉っぱのようなもので小切りにして料理の風味付けに使う。これも鼻にツンとくるような独特の刺激臭がある。 烏龍玉子。これは、烏龍茶の一種か?なにか分からないが鼻に刺激のきつい煮汁に玉子を浸けたもので(どのコンビニにもおでんのような感じで置いてある)、店に入ると匂いだけですぐ店を出たくなるほどだ。 欧米化、日本食化の影響か? はたまた、敬遠しがちになったのか? 香菜以外は、以前ほど見なくなった。 甘いものも結構多い。お菓子の類(落花生ベースのシンプルなものなど)、紅茶(ミルクテーをはじめ兎に角、種類が多い)、緑茶など。(マヨネーズまで甘い)お茶の話は別の機会にするとして、ペットボトル入りの緑茶、烏龍茶他には砂糖分含む甘味料入りだ。日本で売られている純粋なお茶は希少で、「無糖」、「日本茶」と明記されてないものは全て甘かった。それでも近年健康志向なのか、逆に「無糖」やヘルシアのような「油」に効果のありそうなお茶が増えた。(油分の多い料理、甘いものなどカロリーが高いものを摂取していたので肥満化が社会問題化している。男性は多い) いろいろと負の面ばかり書いたが、美味しいものも沢山ある。 空心菜といわれる野菜の炒め物だ。どこにでもある単純な炒めものだが、飽きない味でとにかく美味い。知る限り日本人で嫌いな人はなく、台湾人も良く食べる。(日本でも最近栽培されだしたという話もあるようだが) 餃子。日本では焼いたものだが、向こうでは水餃子を指す。よく食べていたので自分は食べ飽きてしまった。焼き餃子もよく見かけるようになった。 小龍包(しょうろんぽう:シャオロンパオ)。どこにでもはないが南部に安くて美味しい店があり良く言っていた。(台北に行けば何でもあるだろうが。)千切り生姜を薬味に酢醤油ベースのたれつけて食べるところが多い。 ピーナツ・鷹の爪・肉の炒めもの、たまご料理、野菜料理その他、まだまだ、たくさんの料理があるが、きりがないのでこのくらいにしておく。 (だだ、サラダなど生ものは注意した方がいい。不衛生なのか、水が悪いのか以前は一撃必殺であたっていた。トイレから離れられなくなる。ホテルの洗面所には歯磨き時のうがい用などのためか?どこも水のペットボトルが置いてある。最近はかなり改善され水質も良くなっていると思う。水道水を飲めるのは知る限り世界の中で日本ぐらいだろう) 中華料理! 調理法のバリエーションは多く一つの具材に複数の料理がある。敷居の高いところでなくてもちょっとした大きな店に行くと調理法をリクエストしたり、聞いてきたりすることがあるので味わったこのない料理を体験できる。 暑い地方なのでやはり辛い料理が多いのも特徴だ。ピリカラではないが、好きな人にはたまらないだろう。 (文章が長いので、「食べ物 その2に次につづく) |
(台湾 食べ物編 その1からのつづき) 言葉について気になったことを思い出した。 よく日本で使うカタカナ中国語を現地の言葉だと思い込まれていることが多いが、外来英語みたいなもので現地では通じない。多々あるので誤解なきよう。因みに焼き飯(炒飯)は「チャーハン」ではなく、「ツァオファン」だ。また、日本に方言があるように中国圏でも方言が多い。(香港は広東語で「ホンコン」で、北京語では「シャンカン」だ。 北京オリンピックのときだった。NHKを代表する男性アナウンサーがさよなら(再見)を「ザイチェン」と言っていた。また、別の日に現地にいる有名な女性アナも同じような発声をしていた。 「ツァイチェン」だ。濁らない。たぶん、ピンイン(はっせいおん)の「zai jian」をローマ字読みしたんだろうが、最初何を言ってるのか分からなかった。 言葉はできるだけ正確に発音しないと相手に伝わらない。特に中国語は同じ文字に対し、発音一つでまるっきり意味が変わる。 現地実況にも関わらず、四声とまでは言わないがアナウンサーともあろうものが挨拶ぐらい正確にできないのかと思った次第だ。 脱線したが、最後に一つ。 1~2年前だったか。仕事の一区切りで客先始めとする関係者の食事会があった。地方の老舗風の専門店だった。最初のうちは食べたことのある定番料理の品々が次々と出された。酒ばかり飲んでいて、料理にあまり手を付けずにいた。酒も入って周りが賑やかになったころ、半透明のスープが出てきた。小皿にとって食べると未体験の味だ。でも、味に深みがある。なんだろう?お代りするほど癖になるようで、まわりも盛り上がっているし「ちょうどいいや」と黙々と食べていた。あまりに美味いのでいつの間にか大鍋の2/3ほど一人で食べてしまった。ちょうどそのとき現地人がきたので何かと尋ねると、「フカヒレ」とのことだった。 さすがに中国三大珍味の一つと言われるだけあって、ひたすら頷きながら変に納得していた。 |