1940年に、一通の形式的な手紙が「受取人死亡」と記されてAREに戻って来ました。 18年間彼は全く絶望的状態で治療面で善意のクリスチャンに完全に頼り切っていました。この経験は、ネロとして君臨したことによるカルマの多くに彼が出会い、それを克服することを可能にしたことでしょう。〔900-295〕の報告の6ページは明らかに〔33〕氏のことを述べており、こう伝えています。 「肉体的な観点からは何もたいしたことはすることはできなかった、しかしその男に与えられた情報は、他人によって彼が文盲だと考えられていたのは確かにせよ、彼の中に霊的理解のようなものを目覚めさせ、また、彼――その実体――は地上平面における経験の別の時期に於いて、人類に施した破壊のために彼に割り当てられた破壊的力を、彼の潜在意識的自己で認識するようになる。………彼は今や自分自身と向き合っていることに気が付く、そしてそれと共に彼は、創造した………」(900-925) ですから私たちは、破壊的な思考・感情・行動に満ちた生に起因する惨状を見ることになるのです。 (『転生の教訓』 メアリー・アン・ウッドワード著 加藤整弘訳 たま出版刊より) |
『善い事すれば善い理が回る、悪しきは悪しきの理が回る。善い事も切りがなけねば、悪しき事も切りがない。………理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返す、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く。』(M25.01.13 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『人間というは、今日までの日はわかるであろ。明日日(あすにち)の事は分かろうまい。』(M26.05.11 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『さあ/\神一条の道は、表と裏とある。裏の道は誠の道、一つさあ/\日々に運ぶ処は、誠というは通り難いものである。蔭の道は難しい道、表の道は通りよい。世界の道は通り、通り難くい神の道は内、表と裏との道である。内に運ぶ人が少のうてならん。』(M21.05.21 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『一時の“にをい”というは、消え易きもの。深き事情、心の理というは、いつ/\までの“にをい”という。』(M25.07.04 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『通った中に道ある。真の心以って出来て来る。皆大抵やない。山坂をも道を付けたら楽々の道も運ばれるやろう。』(M26.12.16 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『種というは、些(いささ)かのものから大きいものに成る。年々に作りあげたら、どれだけのものに成るやら知れん。』(M37.12.14 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『所々国々遠く所までも“たすけ”一条で救ける救かる、というは皆説いたる。早く/\それ/\゛皆んな早く/\の心に成って、何でも彼(か)でも治めにゃならん、治まらにゃならん。所々にては、それ/\゛心の理を以て、早く救け下されという願(ねがい)をして、治め。』(M27.07.30 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『さあ/\身上に不足あれば、これ分かるやろう。さあ/\神さん/\と思うやろう。神は何にも身を痛めはせんで。さあ/\めん/\心から痛むのやで。………めん/\の親が言う事に、悪い事言う親はあろうまい。』(M21.09.18 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『上り切りたら下らんならん。よう聞き分け。雨降る中もだん/\凌ぎ、百石(こく)蒔いて一粒万倍という楽しみ。』(M29.10.10 おさしづ〔神様のお言葉〕) |