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SOLILOQUY

ひとりごと

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January 15, 2010 20:13:38

力量

カテゴリー: 日記
数年前まで、人の心を変えようと努力したことがあった。でもそれは私の力量を超えるものであると納得した。人の心はそんなに単純なものではない。DNAとかカルマとか人生経験とか生活環境とか宗教とか親の考え方とか挫折とか・・・語りきれない複雑な要素が絡んで人の心は成り立っている。人生経験の僅かな私が、いくら知識を得て頑張って熱弁をふるっても、人の心を変えるなんてできるわけがない・・・と思った瞬間、気持ちが楽になった。
小さな私が考えることは、その人に対してどれだけの時間を割くかを見極めること・・・自分の力量を超えて接さねばならない人には、時間をかけない。他の人の力や時間の経過でその人自身の力が満ちることに任せれば良い。自分自身の力量がその程度だと認識することが、お互いのために賢明だと思う。
ただ、どうしても放っておけない人に手を差し伸べねければならないことがある。この場合は、その人を信じなければならない。心から信じきって、その思いを言葉ではなく伝えねばならない。そのためには待たなければならない。どれだけ時間がかかろうと待たなければならない。そんな人が自分の周囲にいるということが私が生きている証だと思う。
January 14, 2010 21:30:28

鍵束

カテゴリー: 日記
最近、恥ずかしいことだが、よく自分のキーホルダーのありかが分からなくなり、探し回ることがある。私のキーホルダーには7個の鍵がついており、紛失すると大変厄介なのことになるのだが・・・幸いなんとか大事に至ることなく過ごしている。
今日の話は、私の頭が老化してきたという話ではない。そのことについては、また別の機会に話すことにして・・・大抵いつも見つかる場所は、何度も探した筈の自分のポケットの内が多いのだが、今日は自分が不注意であるという話ではない。そのことについても、また別の機会に話すことにして・・・
鍵が見つかった時に、私は数年前の何倍も有難く思う。“なんや、こんなところにあったんか”とか“こんなことに時間を費やしてもったいない”と以前なら、それで終わっていたところだが、最近は心の底から感謝するようになった。なにに感謝するのかと問われると説明しにくいのだが、自分が生きているということが“偶然”とかでは説明できない大きな流れの一部であり、“必然”として日々の出来事があるという・・・その流れのなかに自分自身があることを再認識するための“感謝”ではないかと思っている。

しかし、それより繰り返し鍵を探すことの方が大問題である事は、自分でもよく分かっている。
January 13, 2010 20:32:06

偶然?

カテゴリー: 日記
昨年夏に、ある郷土史研究家に作家のサインの入った小説をお借りした。面白かったのですぐに読み終えたのだが、お返しするタイミングを逃し続けていた。昨日、「今日こそはご自宅のポストに投函しよう。」と思いたち、職場を出た。その研究家は年配で足がお強くないため、お気遣いのないよう事前にご連絡せずに後で投函したことをお電話しようと思った。ご自宅の前に立ち、小さめのポストに包みが入りそうにないと悩みかけた瞬間・・・外出着のご本人が門から出てこられた。昨年後半は体を悪くされ家から出なかったのだが今日は久しぶりのお出かけとのこと・・・以前、短時間二度だけお会いした老研究家は、最初私のことが分からなかったようだが、すぐに思い出していただき無事お借りした本をお返しすることが出来た。これですっきり・・・よくあることだが、この絶妙な偶然?に感謝・・・である。
自分のやり残していることを、私はたまに書き出して、一つ一つクリアしていくことにしている。最近、書き出す項目が以前より少なくなっている。こういう状態が続くとストレスがたまらない。
この調子で、今年が進んでいきますように・・・そうしたい。

ところで、私はもう一人、今年会いたい人にまだ出会えていない。
January 12, 2010 21:11:54

家族

カテゴリー: 日記
8年前、息子が登校拒否を続けていた時、私は今だからこそ分かるのだが最低の親であった。
先ず・・・1)“頑張れ”と励ました。2)気分転換させようと嫌がる息子を力ずくで山に連れ出した。3)痛がるほど強く抱きしめた。4)“自分がやろうと思えばできるんだ!”と繰り返した。まさに、登校拒否の子供には絶対やってはいけない見本のオンパレード・・・
この頃の私には、学校にいけなくなると言うことが病気であるとの認識が無かった。だから誰に相談することもなく、親族にも隠した。息子も私も苦しんだ。今は病気だという認識がある。だから専門医に相談することや、ある程度薬に頼ることも必要だと分かる。急いではいけないことや、症状の改善だけではなく、時には悪い状態に戻ってしまうことがあることも理解できる。
彼が登校拒否の間、親として、かろうじて続けて良かったと思うことがある。夜中まで続けたメール、チャット、ゲームを取り上げなかったこと。そしてネットやビデオを見て覚えた松本人志のギャグを完璧に再現する天才的な暗記力を認めたこと。褒めたこと・・・
幸い、息子は高校になって通学しはじめた。高3の時には無遅刻無欠席であった。卒業式のときに表彰された。嬉しかった。
ここ数年、なにが起ころうと、息子に激しい感情をみせた事はない。何より私自身がおおらかで、大きくあることが、家族にとって安心と自立をもたらすものだと認識している。
January 11, 2010 21:52:32

楕円 Ⅵ

カテゴリー: 日記
机の上の二客のティーカップを見て、同じ平面上に存在するように描くのであれば、画面上の架空の平面上に同じ形の二つの楕円を描いた・・・その後にティーカップに変化させていけば良い。
単にティーカップを描くのであれば、平面との関係やもう一つのティーカップとのつじつまは考えずに、どんな形であれ、自分が描いた・・・それをティーカップであると宣言すれば良い。
どちらのティーカップの存在も私は理解できるようになった・・・絵を描くことで私はささやかな解脱を体験した。

楕円でどこまで引っ張れるか試してたんだけれど、難しかった。ちょっと無理があったと自分でも気がついています。一応これで止めときます。
January 10, 2010 20:39:20

楕円 Ⅴ

カテゴリー: 日記
自分がどのように目の前のものを見ているか疑問を持ち、実はそれまで信じていた見方がいつの間にか周囲から信じこまされた見方であると気がつき、真実のものの見方があると悟り、本当はどのように見ているかを知る・・・この一連の理解のパターンは、インド密教思想に表されるカルマ・マーヤー・ニルヴァーナ・ヨーガの体得順序に似ている。
(1) カルマ(業)----------因縁によっていまがあるということ。
(2) マーヤー(幻想)-------この世が幻想であるということ。
(3) ニルヴァーナ(涅槃)----あの世が真実の世界であるということ。
(4) ヨーガ(冥想)---------冥想法によって獲得された世界観。
        曼荼羅密教研究所 密教曼荼羅 参照
私は、楕円の描写での気づきから、ささやかな曼荼羅を体験した。今生きている世界が、教えられたまま過去から周囲が信じているものに対しても疑問をもつべきであると思うようになった。(続く)
January 09, 2010 21:29:05

楕円 Ⅳ

カテゴリー: 日記
自分が見ている世界が、写真の世界でないと気がついた時、私は上手い絵には興味がなくなった。そして、時間をかけた上手く見える絵を描かなくなった。上手い絵は、知識を得て手順を踏めば誰でも描ける。そんなことはないと言う人が多いが(私は指導者ではないので試したことはないが)私が教えれば誰でも、人から上手いと言われる絵を描けるようになると思う。
対象の部分よりも全体イメージを曖昧に捉える感性が高い作品に興味がある。上手く描こうと思わない絵・・・人に見られることを前提に描いていない絵・・・自分の感情とシンクロしている絵に惹かれる。小さな子供が描いた絵の多くがそれにあたる。
ティーカップの楕円とソーサーの楕円は、少々互換性がなくてもかまわないのだ。
残念ながら、私は私が惹かれるそんな絵が描けない。頭では理解できているのだが、絵を描く段になると私には芸術に向かうだけの純粋さが今は欠けている。
だから・・・気がついた感性を大切に見て楽しもうと思っている。
今は、それでいい・・・(続く)
January 08, 2010 20:52:06

楕円 Ⅲ

カテゴリー: 日記
私は、写真のような絵を描くことができる。その際、背景には遠近法の技法を駆使する(通常三点透視技法を用いる)人物画の場合、先ず医学書で覚えた解剖図をイメージし表面を見ただけでは分からない・・・対象を透視した骨格や筋肉を想像する。ダヴィンチやレンブラントは、自ら死体を解剖し人体構造の知識を得・・・そして遠近法を確立した。まさに彼らは、上手い絵を描くために知識や技法の上に、描こうとした対象のイメージを重ね合わせて作品を作り上げたに違いない。知識と技法のない人が精一杯対称を見て描いた絵は下手な絵と思われることが多い。上手い絵を描くことが目的なら、先ず最初に知識と技法を身につけた方がはやい。
近代以降の芸術という分野では、上手い絵だけでなく、下手な絵も評価されることがある。それはイメージや観念を優先した対象の捉え方が本来の人間の自然な物の捉え方だと言う気づきの宣言であったと私は理解している。私たちは写真のように物を見ているのではなく、実は下手な絵を見るように対象を見ているのではなかろうか・・・
一般に目にする写真や映像は上手い絵を再現するように作られたもので、実際に自分が見ている世界の再現ではないと・・・私ティーカップを描こうとして気がついた。上手い絵を描こうと思わず自信をもって下手な絵を描かれてはいかがだろう。芸術という物が人の心に訴えかける本質を持っているとするならば・・・(続く)
January 07, 2010 20:20:19

楕円 Ⅱ

カテゴリー: 日記
私は普段二つの目で物を見ている。片目づつ交互に目を瞑って目の前の物を見ると、微妙にズレが生じていることが分かる。このズレが対象との距離感や立体感の認識を生む。両目のズレをうまく再現した表現技法が3Dであるわけで・・・両目で見た二つの輪郭線を、二次元上で1本の線にする事は単純に中間をとっているか、こんなもんだろうと適当なところを決めていることになる。そしてもう一つ、対象を見るときの首の角度・向きは描こうとする二次元の画面を見るときのそれとは一緒ではない。このようなことから机に置いたティーカップを描く場合、最初に対象をイメージで捉え画面上でそれらしく見えるように対象を見ないで描いた方がそれらしく見える・・・このことに気がついたのだ。うまく見える絵は見て描いているのではなく頭で描いているという・・・普段から私が言っている原則はこのような理由からである。そして、この事に気がついている人はほとんどいない。私の出会った人のなかでは2人しかいない。(続く)
January 06, 2010 21:41:38

楕円

カテゴリー: 日記
私が30歳前半の頃、机に置いたティーカップをデッサンしていて・・・悩んでしまった。ティーカップとソーサーの二つの楕円をしっかり見つめて目の前の紙に描いた後に、もう一度実物と見比べると“・・違う・・”見て、絵を修正する、見て描きなおす・・・と何度も繰り返すが、いっこうに同じにならない。そして、とうとう気がついた。自分の見ている三次元の世界を二次元の世界に現すことには“無理”がある。それまで、自分が見ている世界は、絵画や写真や映像で表現された世界と同じであると信じていたが、実はその世界はまやかしであると気がついた。自分が見ている世界は目の前の漠然としたイメージかピンポイントの部分でしかない・・・と。人は、それまで信じていたことがまやかしであると感じたとき、次の世界への第一歩を踏み出す。(続く)
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