“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”と言うことわざがある。 坊主が憎くなれば、着ている衣もなにも、その関係する全てが憎くなるという言う意味だと思うが、こういうことは一般には多々あることだ。 好きだった時にはなんとも感じなかった相手の話し方や体臭、口臭やオーデコロンやらが、鼻につき始めると全てがうざとくなっていった…と、言う話を良く聞く。 大抵の場合、その問題の兆候はずっと前からあったはずなのだが、相手が騙すつもりで、よほどうまく隠していたか、それとも自分が相手の気になる部分を見ようとしなかったからに違いない。 私はと言うと、ひょっとすると誰かから憎くなった坊主のように嫌われているかも知れない。しかし、私には誰一人として袈裟まで憎くなった人はいない。 それは、どんな人にも良い部分と悪い部分を見出すことができるからだろうと思うのだが、誰でも両面を持っていて、概してそれは背中合わせの事も多い。人間なんてそんなものだと思いながら、誰に対しても深い関係にはならないようにしている。 自分を傷つけないための防御手段だと言われればその通りだろう。他人を恨んで生きていくよりずっとましだと思うのだが…どうだろう? |
私の子供の頃には、1年に一度くらい送電線への落雷やらで短時間の停電があって、夜中に蝋燭を灯して時間を過ごすこともあったが、最近ではとんと経験がない。震災の時には確かに停電したが、あれは朝だったし私の家は数時間後に復旧したから電気では不自由しなかった。(それより水道の復旧には半年近くかかったから大変だったな…。) それに、原子力発電所の稼働が止まって夏の電気不足が叫ばれた時も、なんとかなったし…。 本日早朝、電線の地中埋設化工事に伴い私の会社のあるビルが午前1時~5時までの4時間停電した。誰もいない館内で電力関係者が工事したわけだが、朝来て充電状態のパソコンを立ち上げるといつものようにはいかなかった。警備会社か夜間に出動した旨のお知らせが入っていたり…、おそらく停電に伴い一瞬異常電圧が流れたせいだろう。それに館内のタイマーが狂ってしまって調整が必要だったし、当然あるはずのものが無くなると、いろいろと慌てることが出てくる。 たまに、自分が過去に経験した、苦しかったことや辛かったことを、思い出すのも大切かも知れない。 昔、自分の手に無かったものが手に入った喜びと、それはいつまでも自分の下にはとどまらないということを思い起こしてみるのもいいものだ。 今年は電気料金も上がったし、今ある電気に感謝して使いつつ、暑い夏を乗り切りたい。 |
今朝、冷蔵の荷物を発送するため、宅配便の事務所にむかって、いつもと逆の方向に向かった。受付を終えて駅に向かって歩いていると小学生の集団がこちらに向かって歩いてくる。ふと、私の住んでいる町が学習塾の町だという事を思い出す。 夏休みだと言うのに、みんな頑張っているんだ…と、思うと同時に、どうして一般の親は他の子供と同じことをさせるんだろう?と言う思いが湧いてくる。 学習塾に通わせることは、激しい競争社会に身を投げるのと同じことで、そのなかに入ったら、大抵の人間は限界にぶつかって将来挫折するに違いない。 教育とはそんな残酷なものではなく、子供自らが興味をもって自分の意志で、一生を通してやりたいことを見つける手伝いをすることではないのか? みんなと同じことをすることが、得意ではない私は…そう思う。 ともかく、今朝出会った子供達が健やかに夏休みを過ごすことを祈りたい。 |
北陸のある会社の代表取締役を任されていた兄は本社の名を受け今年の春解任された。まだまだ働き盛りの年齢だし、本人もどこかから誘いがあれば働きに出るつもりでいたが、いまだに無職である。北陸にいた当時は単身赴任だったので、義姉はやりたいことをやっていたようだから、大きな子供が帰ってきて、さぞかし勝手が変わったに違いない。 それでも、二人は親に反対されるなか、粘りに粘って結婚までこぎつけたから、余所の夫婦よりは愛情は深いように思う。 母の家にチョコレートを土産に持ってきたから分かったのだが、つい先日、二人で北欧に旅行に行ってきたらしい。正確に言うと二人だけではなく、長女と3人連れだったようだ。しかも夫婦の旅費の半額は長女が持ったと言うから、よくできた子供である。 夫婦には3人子供がいて2人が男だが、そのうち長女が一番優秀で阪大工学部の大学院を卒業して、今は若くして都市計画の仕事をしている独身貴族である。反して残りの二人の子供は、いたって普通である。 私は、論理だって物事を考えることが苦手だから、男二人のほうが親しみを感じる。私の子供はというと、やはり直感型で私に似ている。さすがに私の子供だ。 私の子供はいつまでたっても私の旅行費用は出してくれそうにない。 そう考えると兄夫婦の海外旅行を、ちょっとだけ羨ましく思うのだ。 |
昨日、私の近親者から、私の考え方・行動がおかしいと顔しかめられた。 そう言われても、その時には他の選択をする心とお金の余裕が無かったわけで、私にはそうせざるを得ない理由があったのだ。彼はそれを理解してもおかしくない立場なのだが、一般常識で私を推し量ろうとしている。 私と彼との関係が深いから、彼はそこまで踏み込んで私のふるまいがおかしいと言ったのだろう。私にすれば関係が深いから私の考え方を分かってほしいと願うのだ。 どうでもいいことなら、互いに離れれば済むことだが、そうはいかない関係だから、後日改めて私の考えを伝えようと思う。 その時に大切なのは、彼が、私の振る舞いがおかしいと思う気持ちを、理解しようとする気持ちをもつことだと分かっている。 自分の気持ちを伝えることは難しい。 どんな場合でも、自分と異なった考え方、見方をする人を完全否定することは避けたいと…つくづく思う。 いろいろな考え方があるのだ。自分の信念は大切にしたいが、相手には相手の信念があることを踏まえて人間関係を築きたいと思う。 |
相手が勉強不足だとか言って話を聞かず、“自分が正しくてお前が間違っている。”なんて互いに言い続けていたら、その隙に乗じてお隣さんが横に置いてある獲物を抱えてどこかへ行っちまうわな…。 動物的直観のある者や知恵のまわる者は、今一番大切なものが過去の歴史認識ではなく、命の糧の獲物だと言うことは誰に言われなくたって分かるさ…。 相手が間違っていると叫ぶだけなら、駆け引きでもなんでもありゃしない。 そこのところが分からない人はリーダーには向いていない。 ●先ず、第一に互いに認識の違いがあることを認め合う ●次に、互いに相手の認識の事実根拠に耳を傾ける ●次に、認識の違いを埋めるために、別枠で時間をかけて、話し聞く時間を作る ●短時間で、その手順をとったうえで、両者の未来のために、最善の今なすべきことを話し合う ●そこで合意したことを実行する この順番以外に、分かりあえる方法はないと思うんだけど…。 どうして、自分が正しいとだけ言い切るんだろう? なんて人間はおろかな生き物だ。 |
今朝、ある老人と話をしていると、“死”についての話になり、彼女が近づいてくる死に怯えていることに気が付いた。私にとって“死”とは、恐いものではなく嘆きの対象となるものではなく、単なる現象であって、いつでも受け入れられるものだから、そのことを彼女に話をするのだが、トンチンカンにしか理解しない。 神様がお願いを聞いてくれることなんかないんだよ…とか、一瞬自分の経験した死の概念のなかを抜けると、蛍光灯の明かりが消えるようになにもない世界に行くんだよ…とか言ってもポカンとしている。私も見てきたように言うが、私の概念のなかで言っているだけなんだけれど…。 だいたい死に関する概念は地獄にかぶせておぞましいいものだという事も、死は天国への扉だという事も、宗教が都合よく解釈して教えたもので、私にすれば単なる現象でしかない。 死に至るまでの時間には、痛みや苦しみはあるが、死をむかえれば何も感じない。 私は、そう思うんだけれど、大抵の人達は、宗教的概念で死を捉えている。 説明しても分かってもらえないしなぁ…。 もう、この話は止めとこう。 |
私の尊敬する学者が、自分の物事の進め方をメールしてきた。 私の進み方の基本は実践というか、peak to peak styleです。 一段登って、開ける展望、それを重ねてゆくスタイルとでもいうものです。 目の前には、疑問符をつけた看板を置きながら、例えば緑の景観って何だろうといったことをぶら下げて行きます。 昨日の・・・・館での出会いも、peakそのものでした。そこからまた、何が見えてくるか、 本当に楽しみです。 私に、メールしてきた理由は、今進めていることを絶対に成し遂げる…と言う強い決意の表れだろう。 いっしょに事業に臨む私に、その覚悟があるかを問うてきたようにも思う。 心してかからなければならない。 |