私の人生を振り返ると、窮地に落ちた時に救いの手があったと思い当たる。その方達にいつまでも感謝の念を持ち続けたい。例え、時が流れ私を追い詰めようと向って来た人であっても、感謝の気持ちを忘れないでいたい。感謝の気持ちを持ちながら戦うべきときには戦い、感謝の気持ちをもって相手を叩くことのできる自分でいたい。 |
全ての人にとって美しいものも、醜いものも無く、 絶対に正しいことや、間違っていることは無く、 永遠に輝いているものも無くて、 完全なものって、どこにも無くて、 絶対や永遠や完全なものなんて、この世の中には存在していない。 絶対や永遠や完全という手に入らない理想をもとめて でも、努力し、もがき、悩み、苦しんで生きて行けばいいんだ。 |
1880年代に大阪で発行されていた新聞の記事を確かめたくて、Web検索できなかったから大阪府立図書館に電話で尋ねてみた。すると、丁寧に調べてくれて、地元大阪では保存されておらず、香川県の市立図書館か東京の図書館にあると教えられた。 東京の図書館は “東京大学大学院法学政治学研究科付属近代日本法政資料センター” と、教えられた。 なんだか、距離も遠いが、名前も遠い存在だ。 香川県も遠いが、今月中に坂出まで行ってみることにしようと思う。 |
教授から私に次のセミナーで、あるテーマでしゃべるように言われた。そのテーマについて“私は専門ではないので、違うテーマで喋ってもいいですか?”と言ったら。“あなたが以前まとめていた事だから心配しなくてもできるわよ。…と、言われた。私だって完全に理解していることだけ話をしているんではなくて、喋って頭を打ちながら成長しているんだから…。”と、言われた。 また、勉強した感がある。教授はそのように実践し、今の教授になったのだ。 やりながら成長する。 今からでも身に付けたい生き方だ。 |
死にかけても、今、生きているということには、理由がある。 もう一度やり直すチャンスか与えられたのか? 助けてくれている誰かに感謝するためか? まだ、やり残していることがあるからか? それとも、それが運命だからなのか? いずれの理由も正しいに違いない。 それら全てを理解して、自分も周囲の人々も愛おしく思い 生きていくべきなんだと思う。 今、生きているということは、それだけで本当に幸せなことに違いない。 |
36才のバレエの先生と話をした。彼は、16才から海外でバレエ修行し、現在もイタリア・スウェーデン・香港等のバレエ団に所属している。 彼が、イタリア人と親しげに会話する様子を見ていた私は、‘イタリア語はベラベラですか?’と誰もがしそうな質問を投げかけた。すると、‘みんな、私に通訳してくれと頼むんですが、僕は全くできないんです。’‘会話はできても、通訳となると言葉を返還しないといけないでしょ?僕にはそれが全くできません。’と言った。 下手に英語の文法を覚えると、会話力が伸びないと聞くが、それに近い感覚だろうか?言葉というものは頭で覚えるものではなく、体で(耳で)覚えるものだということだろうか? はやりのスピードラーニングの考え方が分からないではない。 下手に知識を持っていると、柔軟性や応用性、閃きに欠けるということだろう。 時と場合はあるだろうが…。 勉強は必要だろうが…。 |
昨日の祭りは生憎の雨。祭りの間だけ雨が降っていた。誰に愚痴を言うでもなく、天に怒りをぶつけることもなく。人々は自分の仕事をこなし、あまりしゃべることもなく片づけをして帰って行った。 みんなは知っている。どうしようもないことがあることを…。 そんな時は、次に頑張れば良いと言うことを…。 思いが外れた時にそう思えることも、経験と言うのだろう。 |
私の子供の頃、電車の線路と線路の繋ぎ目は、夏冬の気温の上昇下降の差による膨張時の反り返りを防ぐため、少し間を開けると習った覚えがあったが、実際にはポイント付近以外は隙間なく敷かれている。知人に話すと新幹線開通時に線路と線路を溶接して敷設する技術が確立されたと教えられた。私の常識が50年以上遅れていたと知る。 世の中の進歩は、私の知らないところで起こっている。ITや兵器や医療も、とんでもないことが現在研究中なのだろう。 でも、どんなに世の中が便利になっても、あの頃は良かった…って年寄は言うんだろうな。 世の中進んでいるから生きられているとしても…。 ときどき、そう言いそうになる自分がいる。 |