昨晩帰りが遅くなり、マンションの入口を入ると、遠目にエレベーターを降りる男性が目に留まった。彼は足を擦るようにポストの方へ消えて行った。私と後から来た一人の若い女性がエレベーターに乗って扉が閉まりかけた時、誰が押したか扉が開いた。そしてさっきの男性が入ってきて、行先階数のボタンを押そうとした時に“アッ”という小さな声がもれた。 私が同じ階で降りることを知ったからだろう。女性が先に降り私達二人だけになった。普通の沈黙のはずが、重たい空気が漂った。彼が先に降り私は後に続いた。フラツキそうなゆっくりとした足取りで、二人は思った通りの方向に向かって歩いた。 そして、私の家の扉の前に来て彼が振り返った。“こちらの方ですか?”“そうです。”と答えた。 “昨晩は夜中にご迷惑をおかけしたようで申し訳ありませんでした。娘が自殺したんです。”と、力なく答えた。私は表情を変えることなく“それは、大変でしたね。お力を落とされませんように…。”と、答えた。 彼とは、私が引っ越してきた時の挨拶で顔を合わせたきりである。昨今の都会のマンション事情の例にもれず、お互い名前も顔も覚えていない。思いがけない偶然である。 家に帰れば、早朝警官が避難板を蹴破ってできた穴の向こうの、手すりの際に小学校の子供の椅子が置かれたままだった。 今日の夕方から通夜があり出席する。会ったこともない娘さんのご冥福を祈りたい。 |