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台湾に台南とうい街がある。 北から順に大きな街を下っていくと、台北、台中、台南となる。 南へ下るほど地方色、民族色ともに強くなる。 その中に合って、温厚な人柄が多く、居心地の良い街が台南だ。 ここに、担仔麺(タンツーメン)という麺ある。この地方の名産らしい。 醤油ベースのスープにそぼろ?と小ぶりの海老が載っただけの至ってシンプルな麺だ。店ごとに多少、味が違うが、あっさりスープとそぼろの甘さが融和して実に美味い。 ホテルの向かいに、地元で有名な店があり良く通っていた。意外に飽きない味で、週に2~3回は行っていた。(この店が一番シンプルかつあっさりして良かった) もう1つこの地方の名産に意麺というのがある。 こちらは、野菜、海老ほか具材が多く入っており、スープは塩味のようだが味気がない。麺が特徴的で、太めで中空の縮れ麺が入っている。スープにあまりに味がないので、よく醤油や豆板醤を入れて食べていた。(何かだしというのがあるのかと疑わせるほど、薄味だ。) また、台湾には牛肉麺(ニューローメン)という代表的な麺料理がある。 これは煮込んだ牛肉片に、濃い目の煮だし汁が入った麺だ。台湾全土、何処でも味わえ、種類が豊富だ。こちらは台湾では珍しく、味が濃い。店により香辛料がきついのが特徴だ。 台湾で麺料理を注文する際、日本にない習慣を。 それは、麺のリクエストだ。数種の中から麺自体を選ぶことが出来る。これは、注文票の品目の横に何通りかの麺が書かれており、その中から選ぶといった具合だ。(大抵、日本のちゃんぽん面のようなものを注文していた) 他にも麺があるが今回は割愛する。 何より、担仔麺が一番美味い。(と思う。) 鳥魚子(からすみ)を初めて食べたのも台南だった。 こちらは珍味で、ボラの卵を塩漬けしたものを、塩抜きし、天日干しにしたものだ。 食するときは、まず表面を炙り、スライスしてそのまま食べる。空港などで土産物として陳列されている。作る手間や貴重なだけあって少々高価だが、一度味わって見るの価値はあると思う。味の喩えが思い浮かばないが、兎に角、美味い。 久ぶりに食べ物の話をしてみた。 |
三重県某市に出張したときのことだ。 夜、市街地に出てみた。街中に入ってすぐのところに旅行代理店がある。 閉店した玄関前で一人の若者が弾き語りをしていた。ごく平凡な光景だ。 軽く飲んだ後、目に留まったので声を掛けてみた。 若者は長渕剛を尊敬しているらしく、「長渕であれば何でも・・・」という。(京都の先生が・・・と、もっと上手の物真似がいるのだろう) 敢えて、「他には・・」と尋ねてみると、「他はできない」と返ってきた。さらに「例えば・・・とか」と誘導すると、「やはりできません」と意思が固い。(相手はなかなか折れない。なんとか長渕以外を歌わないかと、大人気もなく説得にかかる。) そのうち、「じゃあ、スガシカオは?」と尋ねる。少々、思慮のあげく、「1曲だけ“月とナイフ”という歌がだったら」と折れた。 「それをお願い」と言って間もなく、ギター演奏が始まった。ごく短い曲だった。 次の調子だ。 「ぼくの言葉が足りないのなら ムネをナイフでさいて えぐり出してもいい 君の迷いと言い訳ぐらい ほんとはぼくだって 気づいてたのさ いつかまた あんなふうに誰かを憎むのかな だとしたらもっともっとだきしめて トゲのように 心にささればいい あなたにずっとずっと残ればいい いまさら何も言わないけれど 君の言葉は全部ウソでいいんだろう こんなことばかりくりかえしてたら ぼくの涙はいつか月にとどくだろう ぼくはまたあんなふうに誰か愛せるのかな その時はきっときっと かぐわしい風のように時が流れればいい いつまでもずっとずっと続けばいい」 詩の内容は、個性的過ぎる?表現もあるが、メロディが耳に残る。(正直、詩は聴いてなかった。) スガシカオの曲は、曲調が独特で、詩が味わい深い。 先程の出来事と一緒に、なぜか、この歌が心に残っている。 彼は今でも歌っているのだろうか? ふと、頭を過ぎった。 |
普段気付かないが知らず知らず中、日本独自の発想していることがある。 ちょっとしたことでそうかなと納得してしまう。 こんな記事がある。 中国での論争の席上、日本に帰化したある中国人が、つい「先行き不透明だから・・・」と言ったそうだ。 そこで他の中国人は「先行き不透明だなんて、先行き不透明に決まってるじゃないか」「おまえは未来が分からなかったら、何も出来ないのか」と言われ、唖然としたとのこと。 一見、屁理屈のようだが、なるほどと思った。 日本人は時間に几帳面だ。 電車の発着時刻。分単位に律儀なところは数少ない。時間通りが当たり前だと思っている。ところが、海外では、意外に時刻表は目安程度のところが多い。 また、ちょっとした会合に、時間通りに揃うのが珍しいくらいで、30分、1時間の遅れは当然のところもある。 時間に対する意識の違いなのか、時間よりもその先の目的が大事との発想からなのか。 ごく当たり前と思うことも、時々、発想転換をしてみると意外につまらないことだったり、反対に前向きな考え方に変化したりする。 たまには物事の発想を変えて見るのもいい。 |
1989年11月9日、ベルリンの壁崩壊。忘れもしない。 なぜか今回の話題がタイムリーなものになってしまった。 そう、あれは20年前のことだった。 ミュンヘンから(たぶん10時間ぐらい)に戻り、ベルリン行きの列車のチケットを買った。フリーのDBパス(フリーチケット)はあったが、夜行列車のため新たに購入した気がする。 そそくさと食料を買い込み、列車へ乗り込む。 長距離列車のため皆、大荷物を持っている。搭乗率は100%をゆうに超えている。リックとカバンを持って4人がけの席に座った。自分は進行方向と逆向きの窓側、対面には無精ひげを生やした少し年長風の若者、右隣とその対面は母親に抱きかかえられた子供と、もう一人の子供だった。 ミュンヘンを経ってしばらくすると対面の若者が缶ビールを飲みだした。ここまでは別段風変わりではないが、このあとが凄い。次から次へ延々飲むのだ。少し寝て目が覚めると 相変わらず同じ光景。この人は移動の間(ベルリン到着まで)ずっと飲んでいた。後にも先にもこれだけ飲む人は見た事がない。 先程の母親と子供。どこか表情が暗い。これは列車の雰囲気が全てそうだったが、今考えると、当時東側からの人たちが多かったからだと思う。あの当時、壁の崩壊直後とはいえまだ東ドイツは社会主義国だ。ベルリンも西、東に分かれていた上、東ドイツ側にある。 男は無精ひげが多かったし、女は化粧などほとんどがしてない。皆一様に、無表情で服装は地味、体型はどちらかとゆうとやせ細っている。これは一昔前の中国で感じた事と同じだ。生きがいらしきものが感じられず、覇気がない。 母親の話に戻るが、ちょうど日本から飴玉を持参していたので、子供にやった。子供は最初とまどった様子だが、すぐに食べた。ふと母親を見ると感謝の表情を浮かべるのでもなく、ましてや迷惑ともとれない。要は無表情で反応がないのだ。気にせずさらに子供に与えると、子供も無表情で食べている。ここで初めて旧社会主義圏の表情を見た気がした。 いまだにあの時のことは鮮明に憶えている。 ちょっと一言 もともと写真を撮るのはあまり好きではない。印象深いことはいつまで経っても心に刻まれている。あえて全てを残す必要はないと思う。(とはいっても、写真を撮るのだが・・) 閑話休題、翌朝、ベルリンに到着。毎度のこと、駅に着くとまずホテル探しだ。そこへ荷物を預けてから市内散策。やはりブランデンブルグ門。壁崩壊から約1ヶ月半だ。 ここでも日本人にあった。なんと若い女性なのだが、やはり一人で旅してるという。 彼女は地下鉄で東ベルリンに行くという。(なんとも勇気ある子だ) 少し話して別れた。市内をしばらく歩くと、歴史博物館らしきところへ到着。玄関番の老人に足元を見て注意された。何を言ってるか分からず入るを止めた。(後々、考えると足元をきれいにして入れとのことだったようだ) そのままブランデンブルグ門へ直行。さすがに歴史の分岐点だけに感慨深い。しばし直立不動。とくにこの周辺は旧社会主義圏と隣接しているため、いろんなことが肌で感じられる。門衛の交代時間、西側、東側其々から一斉に壁によじ登る。ついでによじ登った。 そこでまた感無量。 残念なことだが、世界各地で民族間紛争が未だ残っている。積年の怨恨が人々から消えることはない。互いの歩み寄りもあるのだが。コソボ紛争のあったある教会の老シスターがこんなことを言っていた。「教会には破壊等で傷ついたものは置かない。また、マスメディアが過剰に紛争の状況、破壊その他現状を流す。これは非常に憂慮すべきことで、決して良いことではないと」 もっと別の方向に向かえないかと。至極、もっともなことだ。 |
もう古い話だが、ドイツの話を フランスのシャルルドゴール空港より入った。旅客数でいえばヨーロッパでイギリスのヒースロー空港についで大きな空港だ。 入ったはいいが右も左も分からない。地図を探していると、最寄の駅まで行くという日本人がいた。彼もどう行っていいのか分からない。不安なもの同士、地図を見ながら何とか駅に到着。 そこで別れ(彼はスペイン方面へと)、いざドイツへと思ったが一息。腹ごしらえのため気の利いたレストランに入る。メニューが読めず、適当に注文する。見た事がない長細い貝が出てきた。フォークとナイフはあるが、どうやって食べるのか悩んでると、ウェイターが素手で食べた。これが人生初めてのムール貝だった。(味の記憶がない) 食後すぐに、駅へ戻りドイツ行きのチケット購入。T/Cで支払いのため自署すると、売り場に子が隣に見せてくすくす笑っている。(よほど字が珍しかったのだろう。恥ずかしながら姓名の名は小学生3年まで書けなかった。) さぞ画数の多い漢字に驚いたと見える。 列車に乗るとシートは案外広い。日本人とは体格が違う。発車間もなく窓辺にのどかな丘陵地が広がった。時間の流れが穏やかだ。途中、小国ルクセンブルグあっという間に抜け、目的地のドイツに到着した。 確か最初は西部の街ケルンに滞在した。まず本場のビールを飲んだ。このために遥々やってきたといって過言ではない。やはり格別だ。味が濃い上、量が多い。(ジョッキが日本のものと比べ物にならない程大きい。) 因みにドイツにはビールに対するこだわりがある。麦芽、ホップ、水、(酵母)以外を使用してはいけないと法令化されている。俗にいう「ビール純粋令」だ。(ただし輸出向けは例外となる。日本のビールは混ぜ物が多く飲みやすくしている。) ビールに長い歴史と文化があるのだ。 ケルンには街の象徴とも言うべきケルン大聖堂がある。世界最大のゴシック建造物だ。完成まで過去、何百年にも亘る建築の歴史がある。当時、外観は酸性雨のため緑色に変色していたのは残念なことだ。 ここでドイツの街について ドイツは大戦で街のほとんどが破壊されたと言われるが、行ってみるとそれはあまり感じなかった。なぜだろう。日本とは木造、石造の違いはあるが、彼らは愛着を持って古い街並みを再興させた。一方日本はというと・・・・・・・ 食事は縦に割れたフランスパンのようなものに、ハムをトッピングした。1本は食べられないので(でかい)、ハーフサイズにした。(ドイツ国内は何処へ行ってもパンは硬く、決して美味いといい難かった。) ドイツには当時、国内限定の周遊切符があって、1ヶ月乗り放題(15000円)だった。 翌日、これを購入し、そのままフッセンまで南下した。その後、国境を越えザルツブルグへ行った。どちらの街も世界的に有名な町だ。・・・・(以前触れたので省略。) この後ミュンヘンへ向かう。ミュンヘンはバイエルン州の州都であり、ビールの本場だ。ここでも朝からパンとビールだった。(やはり並みのジョッキではない) ミュンヘンでは正直、他にこれといった目的がなかったので、早々にホテルに帰って寝てしまった。 ここでドイツのもの創りについて。 ドイツ人は元々愚直だ。このため、もの創りに対しては、ある意味日本人以上にこだわる。 車、掃除機、その他生産機械など・・・ ドイツ人の気質というべきか、堅強なものを創る。このため、どこかの国の品物のように物が簡単に壊れない。 ミュンヘンで泊まったホテルなどは未だに(電動ではなく)機械仕掛け式のエレベータが現役で活躍する。壊れないものを創るのだ。また、列車の座席に肘掛けと同時に頭かけなど付いたりする。今でこそ日本には駐輪所(隣同士でハンドルがぶつからないような仕掛け)があるが、昔からドイツではこの類の機構はあった。 二重ヒンジ付きのドアがあり押しても、引いても開く。ティーポットは蓋にフック構造の付いたもの、巧妙な蓋付のものがあり傾けても落ちない。 生活のあらゆるところにものに対するこだわりがある。 余談だが、ジェット機のエンジンも全金属構造もドイツ人の発明でその他挙げるときりがない。 つづく |
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