『さあ/\身上一条尋ねる、何程の処、めん/\一つ事情いかなる話聞く。どれだけ諭すれど、何ぼでも速やかならん。一時どう、どうではないなれど、身上余程大層。大層なら大層だけの理運び、それより運ぶなら、治まる。これだけ諭すによって、しいかり諭してくれ。』(M25.01.08 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『さあ/\尋ねる事情/\、一時事情、さあ/\よく事情々々長らく事情、長らく間、さあ/\事情は皆んな内々一つ事情、それ/\いんねん事情分からず、一つ道一つの理、何か万事一時の処にて皆治まる。又一つ運び掛けたる事情、何度は言うまで。心受け取るから、一夜の間にも一つ定まる理。何代にも伝えてある処、今日一日という。一度運ぶ二度運ぶ処、一夜の理から運べば、一つの理にある。よって一つ内内戻りて、内改めて運ぶ事なら、何時なりと。一つ事情許し置こう。』(M25.01.10 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『さあ/\尋ねる事情めん/\事情、心一つ随分不思議。したからどう、願わずしてしたからどうという理は無い。諭する処、めん/\の心、これでよいわ/\と日を送る。それでは、行先という方の祟れ、めん/\も聞いた話の理がありながら、心に一つ治まらん。まあ許しというは、元々一つの理がある。所々自由の理も聞かそ。それまでは、元々一つの理を聞かにゃならん。一つよければ又二つと言う。世上の言う理を聞いて、そうかと思う一つの心、早く事情を、しっかり聞かしてやれ。』(M25.01.10 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『心配や難儀や苦労、神が始めるか。これから一つ理取ってみよ。何処に不足あるか。そんな事するから、心配や難儀拵える。そこで、よう思やんしてみよ。人をえらい目に合わせる神が有るか無いか。』(M40.04.07 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『身上尋ねる。尋ねば一つ諭し掛ける。どういう事と思うやろ。………身上に障りて諭しに出た。』(M26.10.19 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『知らず/\の道、分からず/\の道、みす/\の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。盛ん程めん/\心を静めて掛かるから盛んという。心の理があれば勝手の道という。勝手の道は盛んとは言えようまい。暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん。』(M24.07.04 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『一時堪えられんという身の障りでも、こうという精神一つの理さえ治まれば、速やか治まる。どうせにゃならんとは、言わん言えん。たゞ心次第の道という。身上痛めてなりと、どうしてなりと治めようという理を、心に楽しんで定めるなら、さあさあ楽しみ/\の道諭し置こう。』(M30.03.29 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『成ろうと思てもならん。しょまいと思ても成りて来る。これ一つ“いんねん”の理を聞き分け。なれど、“いんねん”と言うて了えば、それまで。いかなる“いんねん”も尽し運ぶ理によって果たす、切る、という理から思やんもせねばならん。一代ではない程に。末代という理なら、大きい理である程にある程に。』(M30.10.05 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
『一二三と言う。一と言うたら一、二と言うたら二、三と言うたら三、一つ/\組むようなもの。成程という理治まれば、十分神が守護する。』(M39.05.20 おさしづ〔神様のお言葉〕) |
以前にも、少しだけ書かせていただいていましたが、毎日とはいかないと思いますが、エドガー・ケイシーが語るカルマ(いんねん)について書かせていただきたいと思います。(^0_0^) 15才の時に交通事故にあって、それ以来ずっと車椅子で生活しなければならなくなった人のライフリーディングです。 彼は、直前の前生では、アメリカ独立戦争の時に兵士として戦い、その時の人生では、困難な状況に遭遇しても、それを快活さと忍耐をもって最善の形で克服する能力を培ったと評価されました。それによって彼は、精神的にも霊的にも成長することができたようです。 彼が半身不随というハンディキャップを背負うことになった理由は、それよりもう一つ前の前生にありました。 リーディングは語ります。それは、初期キリスト教時代のローマで彼が作ってしまったカルマにありました。彼が捕らえれたキリスト教徒と闘技場で戦うことを楽しみとし、何の抵抗も示さずに屈してしまう人々に嘲笑を浴びせていたのだそうです。 つづく |