今年の7月、小学校4年生の担任の先生を囲む会があったが… さきほど半世紀ぶりにお会いした先生の顔が思い浮かんだ… すると当時の記憶が蘇った。 持病の喘息の治療と称して私は水曜日の5時限の合同体躯の時、毎週学校を抜けさせてもらい、一人で当時布引にあった市民病院に市電を乗りついで行き、内科の病室で腕の静脈から血を採って、その血をただ単にお尻に入れるという治療をしてもらっていた。 いつもは婦長さんが注射してくれていたのだが、ある時新人の看護婦さんが担当した。後で婦長さんが「どお…痛くなかった?」と私に聞いてくれた。私は気遣いに答えようと思い「大丈夫です。いつもより痛くなかったです。」と答えてしまった。 婦長さんは、そのまま黙っていた。 子供の私が、はじめて大人を傷つけたと思った瞬間だった。 今、思えば、どってことない会話のように思えるが…その時は、えらいことを言ってしまったとさんざん後悔した。 喘息の少年は神経質過ぎるかもしれない。この時のことを、今でも思い出す私は、いまでも繊細過ぎるところがあるかも知れない。 当時、喘息を治すために、藁をも掴む思いで、いいと言われることを、いろいろ試したものだ。 ところで、あの治療は、いったいなんだったんだろう。今でも分からない。 |
我が町には1880年代にフランス人シェフが開業し、何代か経営者が変わりながら、今でもその名前を引き継ぐホテルがある。 昨日、そのホテルの若いディレクターに私の友人の歴史研究家がホテルの歴史をレクチャーする場がもたれた。10月にホテル従業員を集め、講演する機会が予定されているのだが、今回は本番を前にしての予行演習である。 ホテル従業員の士気高揚を狙った企画であるが…、友人のレクチャーは、知られざるエピソードもいくつか織り込まれ、いつもどおり一瞬たりとも退屈することのない申し分ない発表であった。参加者から拍手喝采…、10月には特に今回の内容に手を加えず講演することが決まった。 会が終わって、駅へと向かう研究家との道すがら…私は、彼に講演内容の素晴らしさを称えた。同時に「震災でホテルが閉まり、一昨年、全く関連のない経営者が昔名声を得ていたホテルの名前だけを利用して開業したわけですが、実際のところ、15年のブランクは、かなり大きく…すでに若い人達には、名声あるというホテルの名前も知らない人が多い筈…名声だけにとらわれずに、今のスタッフが自分たちで伝説を築いてほしいですね…。」研究家は頷いた。私は続けた。「今の会社の若いスタッフならそれが出来るかもしれない。そのきっかけを作るのが、あなたですね…」 研究家は、満足しているように見えた。 |
ある音楽家に“クラシック”とはなにか聞いてみた。「その曲が生まれて最低100年後に、世の中で演奏されている曲…。」と答えてくれた。「では、生きている名作曲家が今…作った曲は、クラッシックではないの?」と問うてみた。「それはまだクラッシクとは言えない。でも名曲なら将来そうなるかも知れない。クラシックと呼ばれるためには時間に淘汰されなければならない。」と答えてくれた。 なんとなく、分かったような気がした。するとバッハやベートーベンやショパンや…この人たちの凄さを改めて思った。 ビートルズは、クラッシクになりそうだ。 50年後、美空ひばりの曲が…100年後、X JAPANの曲がクラシックと呼ばれているだろうか… ともかく、その時分に私は死んでいる。私には見極められない。 “歴史”というものが、どのくらい前を指すか考えてみた。100万年前、2000年前、100年前…、どんな時にも、それぞれに歴史があったはずだ。 そして、この同じ時を、生きている私も、そしてあなたも今現在…歴史を刻んでいる。 そう思うと、少し凛々しく生きようと思えてきた。 |
“アルハンブラの思い出”が、まだスムースではなく、人に聴かせるほどではないが、ギターを習いはじめて1年と少しで、なんとか弾けるようになったので、次に“カバティーナ”を習いはじめた。 この曲は、イギリス人のスタンリー・マイヤーズが作曲したピアノ曲をアメリカ人の天才ギタリスト、ジョン・ウィリアムスがギター曲に編曲したもので、映画“ディアハンター”のテーマ曲として有名である。 私のギターの先生は、クラシック以外は弾かないし教えていないようだから、先生の教室では将来においてこの曲を習う生徒は私だけかもしれない。それにしてもよく楽譜を探し出してくれたものだ。 いかに私が先生にとって貴重な生徒か…。 先生も楽譜を見ながらのレッスンであるが、今の私の実力ではかなり難しい曲だ。ただ、先生との以前の話し合いで、徐々に階段を上るレッスンではなく、少し高いレベルにジャンプし、そこから後ろを埋めていこうと言う進め方で合意しているから、この程度がちょうどいいかもしれない…。 もともと、私が弾きたかった曲は、この2曲だけで他に弾きたい曲もなく、次に習う曲は今の曲が弾けるようになってから考える…。 先生は普段…日本の音楽教育は、簡単なことから徐々に難しいところへ向かうが、欧米では最初からある程度難しいところから始めると言う。 どちらが、良いのか音楽初心者の私には言えないが…、 もし、あなたの目の前にクリヤーしなければならないハードルがあったなら、できるかどうか少し不安を感じるような高さにチャレンジすることをお勧めしたい。 きっと、クリヤーできると思うし、そうしたほうが次の展開が広がって楽しい人生になると思う。 |
今日は台風…あることで、朝から雨風が強くならないようにと祈っていた。詳しくは書かないけれど昨日からいろいろハプニング(良くないこと)が重なっていて、先日のようなゲリラ豪雨が降ると…えらいことになるところだった。 朝早くから氏神様にお参りにいき、問題の11時から30分間が無事に過ぎるように祈った。久しぶりの神頼みだった。正午までずっと祈り続けた。そのお蔭か…台風が向かってきているのに、小雨(少し強かった)程度で時が過ぎた。大きな問題になることなく時間が過ぎて行った。感謝した。 今日の話は、読んだ人がなんのことか分からないだろう。 ただただ、私がなににかの難を逃れ、上手くいったと喜んでいるだけのことだから… そうそう、正午過ぎにお礼参りで氏神様を訪ねた。昔ある人から、神様との接し方を教わった…その手順を実行した。それは神様も人も同じ、誰かにものを頼んだら、後で報告してお礼を言わないといけない…という事。義務ではなく自然に神社に足を向けた。 宗教家には怒られそうだが、私にとって神社も寺も教会も墓も仏壇も同じ意味を持つ。それらはすべて自分を映す鏡…自分と向かいあうところ…自分自身が向かうべき場所…自分がそうあるべきことを確認するツール… 鏡を前に自分を見つめ手を合わせ感謝することも、自分が中心で生きることの大切な証のように思う。 |
先日音響の友人の手伝いでコンサートに行った。開演は夜からだったが、まだ会場にお客が入る前の夕方…リハーサルをしていた時、ホールの天井からとても細かい水粒が何滴も降り注いできた。ボーカルの女性が「会場に雨が降ってる…」と叫んだ。まさにその時、ゲリラ豪雨が会場を襲っており、天井にトップライト(ガラス)がある構造のこのホールでは激しい雨量と風が舞っていたいとこともあり、常識では考えにくい霧状の水粒が舞った。 私は、てっきりホール側と出演者(出演者が企画したコンサートだった)とがトラブルになるのではと、音響の友人に話をした。すると彼は「絶対に大丈夫…クレームにはならない。」と言い切った。やけに自信があるので、どうして、断言できるのかと尋ねれば「会場の担当者と出演者との最初の出会いの様子が、実に爽やかな印象だった。最初に出会ったときの印象が良ければ、クレームに発展しないもんだよ。」と言った。 その後、本番時には雨が止み、水粒も落ちることがなく、コンサートも盛り上がり、出演者は機嫌よく帰って行った。 雨が降り続いて、本番も水粒が落ちてきていたら、どうなっていたかは分からない。 ただ、この日の出来事から三つのことを肝に銘じることにする。 一つは、人にはじめて出会った瞬間に、相手に好印象を与えること… 一つは、自ら悪い方向に進むと考えないこと…少し楽観的なほうがいいかもしれない。 一つは、他人のことで、余計な心配はしないでおこう。 さて、今日もあのホールでイベントがあった。聞いてみるとあの日から、点検修理していないのに、この度の台風でも何事もなかったそうだ。 あの日の水粒は、いったいどうしたと言うのだろう…。 |
知人のフランス料理のオーナーシェフと話をした。 話したと言うより、彼の話を聞いた。彼の店は、とてもいい店で・・・美味い食材に妥協せず、調理技術も優れ、外交官やエールフランスのスタッフも立ち寄る名店である。 彼は、話した。 “リーマンショック以降顧客が減ったが、時間をかけて持ち直してきて、今年の冬・・・1月・2月の普通なら売上げの落ち込む月に、いままでにないほど売上げがあがった。ところが、3月の東北の震災で、また急降下の落ち込みがあり、おまけに今まで使ってくれていた薬剤関係の会社の接待が来年から全国的に禁止になるらしく、周りを見ても暗い話しか入ってこない。先が見えず、これからどうしたらいいか分からない・・・。”というものだった。 彼の話を聞いていると、町場での景気の冬が徐々に厳しさを増している様子が伺える。 “あなたの店が我が町ではなく東京にあったなら、絶対に繁盛店間違いないんだけどなぁー”と以前なら、慰めにならない励ましを言えたものだが、震災以降は東京も厳しそうだ。 みんな自粛して、美味いものを食べなくなったんだ。 そう言えば、近くで繁盛してそうな店は、焼鳥屋かこじゃれたチェーン店しかなさそうだ。 私も最近焼鳥屋によく行くようになったし・・・。 彼に私ができることは、彼の店に食べに行くことしかなさそうだ。 焼鳥屋に行きたいけど、我慢して、おいしい彼の料理を食べに行こうと思った。 そう考えていないと、今までいいと思っていたものが、自分のまわりから、どんどん去っていってしまう寂しさを感じる。積み重ねの人生が崩れてしまう怖さを感じる。 彼の話を聞いて、世の中の流れに、ささやかな抵抗を試みようと思った。 |
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家の近くに温泉の方角から流れてくる、どう言えば良いのか分からないのだが…底も側壁もコンクリートを固めて造られた人工の川のようなものがあり、いつもは硫黄分(?)を含んだ黄色い水が流れているのだが、一昨日、台風の運んだ雨の量が最高点に達した時は、何倍もかさを増した泥水が音を立てて流れていた。 昨朝、いつものように散歩に出て同じ道をたどれば、いつになく綺麗な水が流れており、川底に滞留していた小石や木切れや、人工のゴミが根こそぎ流されてコンクリートの地肌が見えていた。 夏休みが終わったと言うのに、いつも黄色い旗を持って車道を横断する小学生を誘導していたおじさんの姿が見えなかった。朝の挨拶しか交わしたことがないのだが、心配になった。 小学生たちは、おじさんのことを気に掛ける様子もなく、楽しそうに通学していく。 毎朝、10mほど歩いては、なにかに掴まって休憩し、少し休んではまた歩き始める背の丸くなったおじいさんがいる。今日は横断歩道の向こう側で、初めて見る青年と笑顔で話をしている。元気そうで…なぜか安心した。 いつもと同じ朝のように見えても、なにかが少し…変化している。 この台風で、知人に被災した人がいないことを、感謝した。 この台風で被災した方々が、早く未来に希望が見えることを祈りたい。 |
今日は朝から、仕事で同席できない叔母の子供達に代って脳神経外科の医師から叔母の治療方針を聞くために市民病院に行った。 私の町の市民病院は、市の医療産業都市構想に関連して先端医療センターに隣接して建設され今年4月に開院した…まさに最先端の設備をもった総合病院である。 受付を済ませるとテレビのコントローラーのようなサイズの液晶画面のついた受信器を渡された。診察室からの音と文字画面での呼び出しや無人会計機への誘導など、離れたところから指示が飛ぶ…。ところが、看護師さんが患者の呼び出しのために毎回診察室から出てきて名前を呼んでいる。 なんのための最新器具か分からない。 待合所の患者をよく見てみれば、ほとんどが後期高齢者で…携帯電話の操作もままならない人がほとんど…コントローラーの忘れ物はあるし、器具の能力を使いこなせない人が最新器具を持たされても“宝の持ち腐れ(言い過ぎかな)”みたいな感じ…。 結局、最新器具を使いこなせる層の若い人達は、救急で運ばれるしか総合病院にお世話になることがないのかな…と思ってしまう。 それはそうと叔母の眼球裏の動脈瘤に関する主治医の所見は、高齢のこともあり手術は避け、定期検査を繰り返しながら様子をみるというもので、全員それでいこうと納得して診察室を出た。 治療方法の新たな展開はなく、なんら前向きの話はなかったけれど、叔母は手術をしなくて済むことに納得し、喜び、笑顔も戻って帰っていった。 さて、私は叔母の役に立ったであろうか…冗談を言って笑わせれることに価値を認めていただけるなら…私は充分、叔母の支えになったかも知れない。 |