誰かと 自分を 比較してなんになる? 自分が不幸だとか 可哀想だとか 辛い人や凹んでいる人は、あなた以外にもたくさんいますーと、したり顔で言う人に 本当に辛い人や凹んでる人の何がわかるというのだろうか? 痛みや苦しみは、誰にもわからない 自分自身にしか わからないし 越えられない あなたは甘えてるだけ なんて 笑ってしまうほどに陳腐なセリフ 自分の痛みや苦しみは 自分だけのもの 誰かに背負ってもらうものでもなく 誰かに理解されたいからではなく 自分だけが知っている 大切な傷 |
メールやインターネットがこれだけ大きな比重を占めている世の中では。 書いた言葉はそのまま、消したりしない限りは残ってしまう。 一度オープンにしたならば、誰の目にも触れられるものとして、さらされ続けるもの。 言葉は残るから。 大事なことは、言葉ではなく、メールではなく、直接伝えたほうがいい。 言葉や文字はあくまで記号だ。 解釈一つでいろんな意味にとらわれてしまう。良いようにも悪いほうにも。 言葉には熱を残せないから。その言葉がどんなふうに、どんな気持ちで紡がれたかは、書いた当人しかわからない。 百パーセントに解釈してもらえることなんて、そうはない。 誤解があって当然だけれど。 誤解がないよう、気持ちをまっすぐに伝える努力はすべきだと思う。 |
日記を書いていると、時々、通りすがりさんが、ふらりとコメントを残していかれることがある。 わたしがここで書いているのは、不特定多数の誰かに向かって書いているようで、特定の誰かへあてて贈るメッセージのようで。 それでいて、自分自身へ投げた独り言だったりもする。 コメントをいただくのは嬉しい。 自分の書いたモノになんらかの感想なり、動かされるものがあったから、コメントしてくれるのかな?なんて思うのだけれど。 この日記を、コメントは残さないけど。いつもなんとはなしに見に来てくださる方もいるかもしれない。 また、こんな日記なんか、誰にも相手にされないものかもしれない。 わたしが書いているのは、いつだって「素の自分自身の心」 だから、特定の誰かに感想を求めているわけでもなく。同情やアドバイスを求めるわけでもない。 たまたま通りすがって、わたしの書いた一部だけを見て、何がわかるというのだろうか? たったこれだけの短いスペースにちりばめられた言葉にある人間の感情の、ほんのちっぽけな人間を理解した気になって、自分の物差しで勝手に決め付けて、コメントを吐き捨てていくのは、無責任だと思う。 感想を抱くのはかまわないし、コメントが嫌なら閉ざせばいいだけのことではあるが。 別にめくじらたてて怒るのも馬鹿らしいし。 わざわざ人を不快な気分にさせるようなコメントを残していく人が、ここにいるっていうことは、いまだに特定のパートナーを得られず、他人の日記を渡り歩いて、デバガメを楽しんでいるだけの残念な人なんだろうけれど。 (と、勝手に解釈されるのは腹が立つ?いやいや、同じこと。自分勝手な解釈で相手を判断し、コメントを残していく行為となんら変わらないじゃない?) だいたい、同じ土俵にあがって討論するつもりは毛頭ないし。 わたしが書くのは、書くことで自分の気持ちを整理したり、何かを発見したり、自分と向き合うためのこと。 別にウケを狙いたいだとか(笑)かわいい風なモテ子を日記で演じたいわけでもなく。 毎日の同じ瞬間などない今の気持ちをとどめておきたいだけ。 ただ単に書きたいから書いている。 それだけのこと。 |
見つめ直すときかもしれない。 自分の気持ちを。 自分という人間を。 自分が何を目指して。 何を探して、迷ったり、もがいたり、落胆したりしているのか。 自分が描く未来予想図に。 一歩でも近付きたくて。 人生も。 恋愛も。 夢も。 今一度、見つめ直す時かもしれない。 |
年度末ということで。 毎日残業である。 少し前までは、定時あがりでのんびりテレビを見ながら、料理をしたり、ご飯を食べたりしていたけれど。 このところ、仕事中心の毎日で、正直かなりしんどい。 朝から晩まで仕事だと、肉体的にも精神的にも余裕がもてなくて、ストレスをよけいに背負い込んだり、イライラしたりしてしまう。 仕事はもちろん大事だけれど、ばてちゃうほどに頑張ってやることもないから。 ほどほどに。 のんびりと。 無理しない程度に頑張ろう。 |
ついつい期待してしまうホワイトデー。 バレンタインに比べて、イベント的な要素は、やや低めだけれど。 女子にしてみれば、相手が自分のことをどれだけ想ってくれているかの試金石になったりもする。 ホワイトデーはバレンタインの倍返し(笑)は、ある意味お約束と化しているけれど。 (女子としては期待するもんで。男子としては、勘弁してくれーかも) 焼き菓子などはもちろんだけれど、プラスアルファがあれば、愛情は一気にヒートアップするもんで。 もしかしたら、アクセサリーや、ちょっとしたスペシャルなプレゼントがあるのかも。 なーんて。 バレンタインに気合いをこめた女子なら、ついつい、自分勝手に期待した人もいるとは思う。 本来、見返りなんて求めちゃいけないもんだが。 たかがイベント。 されどイベント。 ほんの少しの気配りや、相手へ向かう気持ちがあれば嬉しい。 期待してはいけないとは思いつつも。 サプライズは大きくなって。幸せも倍になったりするんだよね。 |
贈り物について書いたけど。 ついこの間のホワイトデー。義理や本命に贈り物をした人もいると思うのだけれど。 え?ホワイトデーなんて関係ない? …という人もいるとは思いますが。 これから先、まだまだ贈り物をする機会があると思うから。 参考にしていただきたいのは。 贈り物には「メッセージ」カードを添えること。 ふだんはメールや電話で話してる間柄でも。 スペシャルな日の贈り物には、世界でたった一つの、たった一人へ向かって贈られる言葉。 それがあるだけで、多少外しちゃったプレゼントでも、挽回が可能だし。 場合によっては逆転もありうるわけで。 どんな言葉でもいいから。 贈り物にはメッセージを添えて、気持ちも一緒に相手へ贈ろう。 たとえ、300円や500円のクッキーでも(笑)メッセージが添えられているだけで。 ちゅーの一つや二つ、ついてくるかもしれないぞ。 |
贈り物は、相手が喜んでくるることを想像して、気持ちをこめて選ぶからこそ。 もらって嬉しいものだし。 贈り物を贈る側も、相手の喜ぶ顔を思い浮かべて楽しい時間を過ごしたりすることで、贈る側もプレゼントをもらうようなものだったりする。 一年で、贈り物をするような季節といえば、バレンタインやホワイトデー、お誕生日にクリスマス。 けっこう、チャンスはあるもんだ(笑) プレゼントはどんなものでも、もらって嬉しいもの。 相手の気持ちも一緒にもらえるから。 わたしはイベントには気合いをバリバリ入れる人である。 どんな贈り物をしたら相手が喜んでくれるかを必死に考えて、インターネットを駆使して、とっておきを用意する。 頑張って考えたすえに、読みが外れてしまうことも、多々あるけれど。 プレゼントに添えたメッセージカードでなんとか挽回(笑)してみせたり。 相手が自分のように考えてくれることを、つい期待しちゃうのだが。 無造作に渡されたプレゼントに、少し寂しく思うこともある。 相手が喜んでくれることを、考えて考えて考えて、プレゼントは「努力賞」つきの、スペシャルなものになる。 |
お付き合いをするにあたって。 わたしが一番に思うのは、「合う」ということ。 価値観はもちろん、喜怒哀楽のツボや感覚が似ていたり、趣味や食事などの味覚が合うということ。 それが大事。 ただ、趣味や食事の傾向なんかは、お付き合いするうちに似てきたりするもんで。 はなっから、同じを求める必要はないのだけれど。 生活観や感情の感覚は、その人自身を表すもの。 簡単なようでいて、合うということは、実は難しいものだ。 好きになるということは、お互いのなかにある「合う」ものを拾い集めていくようなことかもしれなくて。 逆に「合わない」ものを数えては、寂しくなるだけ。 |
凹んでます。 ちょっとシンドイ。 仕事もこれからがかなりシンドイ時だけに、精神的に凹んでいる場合じゃないんだけど。 人はみんないろんな気持ちをもって生きていて。 自分と他人とは生き方も考え方も、みんなみんな違って当然。 だからこそ、分かり合いたかったり、深く知り合いたいとも思うもの。 でも、気持ちが届かなかったり、すれ違ったり。 本当に難しい。 毎日それでも頑張って生きているわけで、凹むときだって、ある。 問題はここから立ち直れるかどうかーである。 |