生活習慣。 育ってきた環境が大きく影響するもので。 食事1つにしても、味の好みもいろいろで。 濃い味が好きなひと、薄い味が好きなひと、別にこだわらないひと。 いろんな生活をしてきたひとがいる。 好きなひとの料理なら、なんでも嬉しいとか、なんでも美味しい。 そう言ってくれるひとになら、どんな料理も作ってあげたいと思う。 味はこうでなくちゃいけないーとか、自分の好みに合わせてーと、いろいろ注文を受けると、料理が楽しくなくなる。 わたしの料理は自分が食べたいと思うものや、好きなひとが好きなものを食べたいものを作ってあげたいなぁ~と思うことがスタート地点。 だから、自分の味を好きになってくれるひとがいい。 自分の好みを押しつけるようなものだけれど。 好みがうるさい人にはご飯を作ってあげる気になれない。 食事はとても大事だと思うから。 もし、自分の味にこだわりがあるのなら、自分で料理を作って欲しいと思う。 自分の味を相手に強制しないで、自分が料理を作る人になればいいだけのこと。 けれど、料理をして欲しいと思うひとは、相手の味に自分の舌をあわすような努力はしてもいいんじゃないかな~と思うのは、わがままだろうか? |
どうしてもダメなことがある。 生理的にダメって思うことがあると、どんなに好きでもダメだ。 それはリアルな生活習慣で。 清潔感のないひと。(お風呂は毎日入るのがいいし) 食事のしかた、食べ方なんかも品がないのは許せないし。 食べるとき、租借する音が聞こえようものなら、その場にいられない。 くっちゃくっちゃ音を立てて食べる人、犬食いのように食べるひとは、どうしてもダメ。 自分がどれだけキレイに食べているか・・・は、自信がないし、そこまで厳しい条件を言っているつもりはない。 食べるというのは、リアルな部分で一番大事。 生理的にダメだと、他のこともなんでもダメに見えてきてしまう。 だが、そんなことが気にならないくらい、相手が好きなら、問題はないのかもしれないが。 わたしは、付き合っていくということは、リアルな部分も見えてくるもので。 イケメンだったり、背が高いだとか、そんなことはどうでもいい。 でも、一緒にいてご飯を食べたり眠ったりするのなら。 生理的に許せない部分があれば、治して欲しいと思うし。 自分も治していかないと・・・と思う。 |
テレビが好きなひとである。 一人暮らしをしているせいもあるけれど。 だいたい、家にいるときはテレビを見たり、録画していた番組をみたり、レンタルを借りたりして、テレビを見ていることが多い。 好きな番組、お笑いやバラエティなんかをよく見ていて。 連続ドラマはあまり見ないほう。 でも、気に入った内容のドラマやアニメなんかも実は録画していてみたりもする。 テレビがなければ生きていけないーなんてことはないけれど。 テレビは好きなので、ご飯を食べながらとか、パソコンの前にいながらーとか、テレビと一緒に過ごす時間が多いひとだ。 一緒にのんびりのほほんと、お休みの日はテレビを見て、一緒に大笑いしてくれるひとがいいなぁ~と思う。 どんなに仕事で疲れていても、テレビを見て笑えば、案外嫌なことも忘れられちゃうもんである。 |
好きだから。 ただ、それだけで、相手に犠牲的に尽くせるものだ。 でも、尽くしても、相手が全然感謝してくれなかったり、受け入れてくれなかったりすると、だんだんと「自分は何をしているんだろう?」という気持ちになる。 以前の恋愛で、わたしはとことん相手に尽くしてきて。 相手もそれをわかってくれていたから、悔いはないのだけれど。 尽くして尽くして尽くしてきたけれど。 それが重かったり、家族的な愛情に思われたりして、いつしか自分のしていることの意味がわからなくなっていた時期もあった。 尽くすのは自分の意思だから。 相手に感謝を求めるのは筋違いかもしれないけれど。 やっぱり、10に対して2や3くらいは「ありがとう」って言って欲しかったり、気持ちを態度や言葉で示してもらえたら・・・って思う。 尽くしてくれる人が好きっていう人は、尽くしてもらうことを当然と思わず、感謝の気持ちや言葉をきちんと表すことを忘れないで欲しい。 どんなことでも。 してもらって当たり前とか、当然なんてことは何ひとつないのだから。 |
わかって欲しいことがあっても。 どこまで言っていいのか、いけないのかーが、難しい。 わたしは心を許していくと、いろんなことをダイレクトにぶつけていくもので。 それは自分を知って欲しいからだし、踏み込んでいいよーという合図でもある。 わかって欲しいのは、心。 理解して欲しいのは気持ち。 わがままな要求もあるかもしれないし、無理難題を言うかもしれない。 そんな時は優しく、時には厳しく、甘えさせてくれたり、おおらかに受けとめて欲しい。 わかって欲しい。 いつもそう願って渇望する。 心。 |
出会うということは 奇跡 奇跡を信じるか、信じないか? 信じるひとは救われる? 出会えたら その奇跡を信じればいい 信じていれば きっと 出会える |
こういったネットからの出会いのサイトでは。 メール1つで、出会いがつながったり、終わったりする。 それは本当に簡単なことで。 ただの言葉のやりとりが、ネットの枠を越えて、リアルになったりもする。 リアルになることは、ある意味、奇跡とも言える。 その奇跡を信じていないひともなかにはいて、ちょっと可哀想になったりもする。 ほんの少しの勇気や相手を信じる力を持って、一通、一通のメールを大事にしていくことが必須ではないだろうか? メールに書く言葉も、一生懸命考えて(気負う必要はないのだけれど) 山のように来るメールの一通として、埋もれてしまわないように。 ダイヤモンドの原石として見つけてもらえるよう、どこか、自分だけのオリジナルスパイスを振りかけてみる。 気持ちのこめかた一つ、言葉の選び方一つ。 出会いが奇跡になるか、バーチャルのままで終わるか? 自分次第、相手次第。 |
自分の心だけでも持て余したり、わからなかったりするのに。 自分以外の、たとえば、友達や家族、好きな人や、出会ったばかりの人、好きになりそうな人の言葉の意味なんて、本当にわからない。 自分の言葉には自分が責任を持つ。 それは当たり前のことで。 でも、相手の言葉の真意は受け取る側の感情次第で、どんなふうにも解釈できるもの。 相手の気持ちを正しく受け取れれば問題はないけれど。 そのとき、そのときの気持ちの持ち方ひとつで、ハッピーになったり、毒になったりもする。 言葉だけで気持ちを全て把握することなんて、どだい無理な話だけれど。 それでも、言葉には気持ちがこもるもの。 気持ちのない言葉には意味がないという人もいるけれど。 気持ちがなければ、その言葉自体をハナから使うわけでもなく。 やっぱり、なんらかの意思があって、その言葉を使うわけで。 言葉と心は一本の線でつながっているものだ。 |
早いもので、今日から3月。 陽射しも、気温もあったかくて。 春がぐーんと近づいた感じ。 それはそれで嬉しいのだけれど。 花粉症も本格的にはじまって、軽い頭痛と鼻が出てシンドイのなんのって。 薬が効いている間はいいけれど、薬がきれると、も~大変。 目はしょぼしょぼするし、まいってしまう。 それでも、やっぱり春っていいなぁ~。 |
わかってくれるでしょう? とか。 態度で示してるから、いいだろう…だとか。 何も言わなくても、大丈夫だって思うのは、とてもデンジャラス。 自分はわかっていて当たり前だけど、相手には届いてないことだってあるわけで。 いかに態度で表してみても。届いてないことはある。 示してみせたものを受けるアンテナの感度は人によって違うのだし。 何も言わなくてもわかるはずーとか、態度で示してるからじゅうぶんでしょ?ーみたいな思い込みは、独り善がりにすぎないから、気をつけないといけない。 自分と相手は、まったく別の人間なのだから。 理解しあったり、つながるためには、いつでも、くどいくらいに、形を示しておくことも必要だ。 |