今日は、いつも暇な私が忙しい。前にも書いたことがあるが忙しいと頭がしびれる。頭の血流が良くなっているからだろうが、この状態が疾患なのか問題ないものなのかよく分からない。いずれにしろ明日になれば、また暇な一日が過ぎていくのだろうから、心配しないで良いと思うが…。 朝から、取引業者にきつめの灸をすえた。なまはんかな注意をしても耳に入らないようだから、今日はとことん追いつめた。 これで、一気に疲れた。 午前中にコーラスの練習をしていた…初めて来たおばさんグループが、突然ランチを食べたいと言い始めたものだから、そこまですることは無いと思いつつ…三っつのレストランに分けて予約してあげ、会場まで案内した。なかなか動かない烏合の衆からさんざん愚痴を言われた。これでまた疲れた。 11月3日に同窓会をする場所を探してくれと兄の友人から電話があり、当日は仏滅だが祭日なのでどこの会場も詰まっているものだから、手あたり次第に知人のレストランに電話して、やっとのこと、受け入れ先を見つけて紹介してあげた。これでまた疲れた。 その他、クレーム処理やらなにやら…。 留めに今日の5時から、契約上の話し合いをすることになっている。 今日やったことを羅列してみたら、契約以外、雑用に追われてあまり生産性のない一日のようだ。 それなのに頭がしびれている。 近いうちに、脳の血管造影のCTでも撮ってもらおう…と、思った。 |
昨日、私が高校生のときに好きで聴いていたジャズアーティストの曲をユーチューブで検索して聴いてみた。世の中の汚い部分を見ることのなかった…あの当時は今より美しい物に敏感だったように思う。 モネの展覧会で、水連の一枚の絵に釘付けになり、目を閉じることができなくて涙がこぼれた。“ビルエヴァンスのアローン”というレコードを聴いて、なんだか分からない感情が体の奥から溢れ出し涙がこぼれた。 技術だけではない…数字や言葉で説明のつかない価値観があの頃、私のなかで、急速に育っていたように思う。 あれから、40年という歳月が流れた。 美しいものにたくさん接して、その奥に潜む醜い部分や、何気ない普通のものに隠れた輝きを発見した。でも、もう涙が流れ出すほどの熱い思いは蘇らない。 何度も繰り返し回し、針が盤を削る雑音の入ったレコードを引っ張りだしてみようと思う。プレーヤーもどこかで手に入れねばならない。 さて、あの当時…私の心を揺さぶった…腹の底から突き上げてくる感激が再び自分のなかに生まれるだろうか…? …そう考えた時点で不可能だと悟った。 |
今朝、いつものヘアサロンに行った。この店の特徴はシャンプーの丁寧さにある。初めの1時間…シャンプーに時間をかけてくれる。 マイクロカメラでの頭皮のチェックからはじまる。さっと頭を洗ってから頭皮と髪の毛に栄養剤を与え(若い時に比べると少し薄くなった)、それからやっとシャンプーへと進む。それ以外にも、なにかやってくれているようだ。 この時間…いつもなら、気持ちよくて、うとうと寝ているところだが、今日は眼が冴えていたので、担当の20才後半の女性スタッフに話しかけた。 “人は、見ようとするものしか見えないし、聞こうとするものしか聞こえない。聞こうとすると聞こえないはずの音が聞こえ、見ようとすると、見えないはずのものが見えてくる。この理屈が理解できると…、人生は、自分の思うようにしか進まないし、思えばすべて思い通りになることが分かるようになる。”と、ちょっと賢そうなおじさんを気取って話をした。 “分かるかな?”と、聞いてみた。 “私には、難しくて分かりません。”と、彼女は答えた。 一瞬、続けて説明しようと思ったが、違う話題に切り替えた。 だって、彼女には私の話を聞こうと言う気持ちがないんだもの…。 話す相手を間違えた。“やたら分からんことを言うおじさんやわー。”と、思われるだけだと気が付いた。 これから、しっかり相手を確かめて、話題を決めようと思った。 |
facebookに自分のプロフィールに好きな言葉を書く欄がある。一言二言書くのが一般人の常識人と言うものだろうが、私は節操なく幾つも書いている。私がここに書いている文章を最初から読んでいる人は、それぞれ好きな理由がお分かりだろうが(そんな人はいないと思う)、まとめて羅列してみる。 ・べっちょない ・人生に夢があるのではなく 夢が人生を作る ・命まではとられんは! ・来る者は拒まず 去る者は追わず ・桃李不言下自成蹊 ・静座観雲起 ・軽妙洒脱 要するに、私の好きな言葉には特に一貫性がなく、思いつきで適当に感動しながら生きていることがお分かりだろう。 一番新しく加わった言葉が“軽妙洒脱”である。出会ったことのない…話したことのない人のプロフィールに出ていた。 辞書には“[名・形動]会話や文章などが、軽やかで洗練されていること。また、そのさま。”と、あった。無知な私の知識には無かったが言葉だが、出会ってみるとシャレていて、親しみが湧いてきた。 私には縁遠いさまであるが、好きな言葉に加えて、これからの生き方の目標にしてみたい。 さて、次はどんな言葉に出会えるだろう。 |
2009年11月27日に書いた文章を読み返してみた。 “身もだえする痛み”という意味を辞書で調べてみると、それなりの説明があるのだろうが、実際にそのような痛みを経験したことが無ければ、文字を読んだだけでその痛みを想像することは難しい。ただ何かの拍子にそれに近い感覚を味わったなら、その痛みは頭のなかでイメージ化される。 “身もだえする痛み”のなかには、死にそうなくらいの痛みもあるし、それほどでもない痛みもあるし、本当に死んでしまう痛みもある。ほとんどの人は経験したことのない傷を負ったとき、その痛みがこの世の中で最もつらい痛みのように思うが、死んでしまう痛みに比べればたいしたことはない。 “身もだえする痛み”を今、感じた時、それまで思っていた“痛み”がそれほどの痛みでなかったと思えるものだ。だから自分にとってそのときに最高につらい痛みはあっても、世の中で最もつらい痛みというものはない。 まだ自分の知らない大きな痛みがあることを知り、今その痛みを感じている人がどこかにいることを客観的に理解することが、謙虚に自分が世界の中心に在ると思うために不可欠な要素に違いない。 あなたにとっても、私にとっても、今知る“心の痛み”は、自分に厳しく、人に優しく在るための小さな糧なのだろう。 あれから3年が過ぎた。 いろいろな人に出会ったが、世の中には感じた痛みや感謝の気持ちを忘れてしまう人がどれだけ多いことか… 私は、忘れないでいたい。 |
今日ギター教室に行って、レッスンを受けた後…突然先生から、自分のことを“ギタリスト”と言うのを止めようと思って…と言いながら、先生が次回のコンサートの最中に話をする原稿を見せられた。 そこには“ギターの好きなおっさん”と言う表題の草稿があった。例によってギター界ではアウトサイダー的存在の先生が、いろいろ考え悩んだ末に思いついた呼称だと悟った。先生なりに深い意味があるに違いない。 私ごときに意見をもとめなくてもいいのに…と、思いつつ私の考えを伝えた。 “私が自分のことを、絵の好きなおっさんと言う事はあります。でも、それは自分が絵のプロフェッショナルではないからです。 先生は、音楽を型にはまったものではなく、自由に楽しく演奏し、聞き手も同じように楽しんでもらいたい…と言う気持ちが強いのでしょうが、もしそうであれば言葉で説明するのではなく、演奏を通して感じてもらうことに力を注いだほうが良いのではないでしょうか…? 自分の思いを聴きに来た人達に言葉で伝えようとしても、聞いた人は先生の思いの20%も分からないでしょう。言葉にはならないけれど、先生の演奏を聴いた人達が、ギターという楽器や先生のことを少しだけ好きになって帰ってもらえたら、それで充分ではないでしょうか。” …なんて…また、分かったようなことを言ってしまった。生徒の言う話じゃーないよね…。 その後、次の生徒が来たので後の話はできなかったけれど、先生は私のことをどう思っているのだろう?先生にとってみたら年下の私のほうが、人生経験が深く映っていて、一目置いてくれているのだろうか? たいしたことないのだけどなぁー。あまり苦労していないのだけどなぁー。先生の周りに話を聞いて意見の言える人が少ないんだろうなぁー。 次のレッスンの時には、私からは今日の話の続きは触れないでおこうと思う。 |
今朝、カイロプラクティックの診療所に行った。治療時間は10分程度…。例のように運動の法則を利用した…第一頸椎に近い首の皮膚に、触れるか触れないかの圧をかけるだけという治療だが、これが前回よりまして嘘のように効果がある。 年会費を払いこんで年間を通じ、私の体のバランスを診てもらうことにした。 若い時は、若さはタダで、自分にいつまでもくっついているものだと思っていたが、老化という文字が頭にちらつき始めると、若さを保つためにはお金と努力が必要だと気が付く。 肌は、重力に逆らえなくなり垂れ、動かさない関節は固まり、骨はもろく折れやすくなり、体中に色素が沈着しはじめ、脳細胞を筆頭にすべての細胞は再生するより死滅する数が増えていく。 今を維持することの大切さに気が付き行動することが、先の人生で、どれだけ大きな差となって現れるか? 先日スポーツクラブの会員になった。水泳が苦手と言うコンプレックスから逃れたいというのが大きな理由だ。私のもう一つのコンプレックスは体が硬いという事だ。だから、ついでにおばさん方に交ってヨガにチャレンジしようかしら…。 私はまだ間に合うと信じ老化に抵抗していこうと思う。 カイロでも、水泳でも、ヨガでも、ロングブレスダイエットでも、何でもやってやる。 長生きするためではなく、楽しく生きていくために…。 |
以前私の部下だった料理人が、昨年会社の近くでイタリア料理店を開業した。ときどき料理を食べに行ってみる。2週間前にランチに行った時、独立を果たしたシェフの同僚で、やはり私の部下だった…現在地元の山口に帰って田舎のレストランに勤めている料理人の話題をシェフがふってきた。“あいつが、地元での独立を前にもう一度都会で修行したいから、うちで働かせてほしいと言ってきたんですけど、どうしようか悩んでるんです。”と、私に問うた。私は、“この店の経営状態はわからないから、言いようがないなぁー。”と、素っ気ない返事を返した。 昨日、彼のレストランに行くと、“あいつ来年の初めから、来ることになったんです…。やっていけるでしょうかねー…俺?”とポツリと言った。 私は、“だいじょうぶ、やってけるよ!上手くいくよ!もう決めたんやろ…だったら後ろを振り向いても仕方ない。前だけ見たらええんや。チャンスやないか…。”と言った。 彼は、“あーっ、チャンスですか?”と料理をしながらつぶやいた。 私のささやかな彼へのエールである。 自分で決めたことを、始まる前に振り返ってはいけない。それは無駄な時間だ。どうすれば上手く運ぶか考えて、今を動けはいいのだと思う。 彼の肩にかぶさる荷が、彼の底力を育てることになるよう…傍観者の私は祈りたい。 |
私は新聞にサッと目をとおすくらい…、たまに郷土史を読む以外は普段あまり文字に慣れていない。そんな私の夢は小説を書くことである。以前ここに小説の書き出しを載せたことがある。頭のなかにはストーリーの構成はできているが、最近はなにも書いていない。 小説はちょっと置いておいて…今、作ろうとしているものは、私の町の居留地時代を背景にした絵本を作ることである。この絵本の絵の部分は当時に描かれた一枚の絵のなかのモチーフを分解して使用する。文章はその絵を一冊の歴史書のなかから引っ張り出し、スポットを当てた歴史研究家に書いてもらっている。 ほとんど、私は何もしない。 歴史研究家の顔を立てながらプロローグとエピローグは書くかも知れないが、構成と拡販ルートを確立するだけである。 私が、ここに毎日なにがしかの文章を投稿している理由は二つある。一つは…本を読まない私が、だいそれたことに小説を書きたいという夢をもっているため、思いを文章化することに馴染むためである。もう一つは、私が死んだ後に息子が私を少し理解するためである。 絵本が完成すれば、おそらく私が誰か分かってしまう。 絵本ができたころ、私はこの日記から離れるつもりでいる。 それから…実名でブログをはじめるだろう。 周囲の人達には文章が下手だと言われているが、私を知っている人は誰もこの日記を見たことがない。 自分でも上手いとは思わないが、それなりにこれからも書き続けようと思う。 私には、印税生活を目指す下心?がある。 このページを訪ねていただく方々がいることが、私の大きな励みだ。 今日は、なんだか…私にお付き合いいただいている皆さんに感謝の気持ちを伝えたくなった…。 |