今から15年ほど前になるが…私が人生において目の前に大きな壁があることを感じ始めた頃、いつも“よっしゃ…だいじょうぶや…べっちょない。”と言って励ましてくれた超能力を持つと言うおじいさんと会う機会があった。 私の別れた妻といっしょに、5年間に渡り年に数度、その方の家の門をくぐった。しかし、おじいさんのことを教えてくれた妻との離婚を機にお会いすることがなくなり、その間に子供と二人だけの生活があり、登校拒否の問題があり、会社清算の話があり、死にかける病気を患う等の経験をした。 今はその時の壁を乗り越え楽しく生きている。 一昨年の秋に、10年振りに、もう亡くなっておられるのではないかと思いつつ、ご存命であればご高齢であろうおじいさんの家を訪ねた。すると偶然、家の門の外に出てこられた元気なおじいさんに出会う事ができ、苦しかった時に“べっちょない!”と声をかけていただいたことが忘れられないと言う話をした。 そしてその年の暮れに、僅かばかりの御礼の品を贈った。すると “私は、なんにもしてないけど、ええんか?”とご本人から電話がかかってきた。 私にとって大切なことは、私に生きる力を与えてくれた全ての人に感謝し続けること…私がそのことを忘れてしまえば私が私でなくなる…と、いう事…。 このことを肝に銘じて生きていきたい。 昨日、私が御中元に贈った品への御礼の電話が、おじいさんからかかってきた。 お元気な声が聞けて嬉しかった。 これからも、お元気でいていただきたい。 |
古典的な絵画も、印象派の絵画も、現代アートも私は好きだ。しかし、作品が好きだと言うことと、その作者の人間性が好きだと言うのとは別の話で…、作家という類の人種は変わった人間であるし(そうあるべきであるし…)一定の距離を越えて近づきたくないと思う。 例えばゴッホなんて作家は、もし同時代に生きていても、いっしょに酒を飲みたいとは思わない。突然、酒瓶を担いで頭に包帯を巻いて目の前に現れ、“どうしたんだい?”と、聞いたら、“さっき、耳を切ってきたんだ。”なんて答えられたら、たまったものではない。 私は、若かりし頃、短期間だが真剣に絵を描いた時期があり、特にコンクールに出品して受賞したことはないけれど、ある有名な先生から絵の世界でやっていける…と、お墨付きをもらったことがあった。その時に描いた絵は外国の田舎の精緻な風景画であり、観た人からはとても確かな描写で美しい絵だと高評を得たが、一日中キャンバスに向かって描いていた私は、描いている時の自分の精神状態が決して良いものではないと思い知った。だから、筆を置いてビジネスの世界に入ったわけだ。 ビジネスの世界で頭打ちした私は、あの時絵を描き続けていたほうが良かったのではないかと、ふと思う事があるが…、やはり精神状態が不安定になった、あの辛い状態は続けていられなかった…と、すぐに思い返す。 美しい絵を描く人が美しい心を持っているとは限らない。おおらかな絵を描く人がおおらか心を持っているとは限らない。地獄図を描く人が恐ろしい心の持ち主だとは限らない。 実は、私は他人の絵を観て、作家の精神状態が思い計れる。 作家とは距離を置いてお付き合いする人種だと、自分自身の経験もあって…思う。 |
何年も前のアカデミー授賞式で賞を獲った人達が、神様やら、スタッフやら両親やらに“今、自分がこの舞台に立つことができるのは、あなた方のおかげです。感謝します。”なんて…受賞者のすべてがいうもので…なにか他に面白い事いう人がないものかと思ったこともあったけれど…。 気がつけば、ロンドンオリンピックでもメダルを獲った人は十代の若い人でも、競技終了後のインタヴューで同じように話している。 これは、前もって用意したコメントではなく、あるレベルに到達した人が精一杯努力した後に自然に出てくる感情なのだと思うべきなのかな…。 柔道が国技(?)だから、勝たなくてはいけない…と言うのは、選手にとって、すごいプレッシャーなんだろう。 でも、柔道が日本の国技だなんて考えている国は、日本しかないのかも知れない。だって、1969年の東京大会からオリンピックの正式種目になったと思うけど…その時から48年も経ってるんだから…。 オリンピックの競技名は“柔道”ではなく“JUDO”というスポーツなんだよね。 “JUDO”と“柔道”は違うものだよね…。 剣道がオリンピック種目にはならない大きな理由の一つに、剣道は精神性を重んじる武士道であってスポーツではないという理屈があると聞くが、それはそれで筋が通っているように思う。日本の柔道界の幹部の方も、その辺のけじめを、もっとつけるべきだと思うな…。 日本柔道界は明らかに、転換の時がきたように思う。少し遅かったと思うけれど…。 我々一般人も“柔道”と“JUDO”の違いを認識する良い機会だと思う。 カリフォルニアロールはSUSHIであって、寿司ではない…。違いを認めてこれからも、どちらも進化していってほしいと思う。いやいや寿司は進化しなくていいのかもしれんなー。 改めて、ロンドンオリンピックに向けたJUDO選手と指導者の日頃の精進に拍手を送りたい。 次回のオリンピックで、JUDOの多くの日本選手から、心からの喜びと感謝のコメントを聞きたいものだ。 |
野球やバレーボールの試合を見ていると、応援団の指図(リード)で沢山の人が同じ掛け声や動きで応援しているが、私にはスポーツ観戦より、他人と同じ行動をとることに喜びを感じているように見え…奇異に思える。 アメリカの球場では、ボールがバットに当たる乾いた音が球場に響き渡ると言うが、日本では応援の太鼓やラッパ(?)の音で臨場感ある音が、かき消されてしまう。 日本人は、世界で最も集団行動に向いた国民なのだろうか…。他人と同じ行動をとることで安心する国民なのだろうか…。 圧巻は阪神タイガースの試合の7回攻撃前に上がる風船の舞…。私には風船業者の思惑にまんまと乗っかってしまうファンの気持ちが、いま一つ理解できない。むしろあの場にはいたくない…という気持ちが強い。 私の長所は“他人と同じことをしたくない。”と、思っている事…。 私の短所は“他人と同じことをしたくない。”と、思っている事…。 要するに、ちょっと変わってるわけね…。 小学生の頃…行ったきり…野球観戦には出かけていない。せめてフィギアスケートくらいの応援であれば、野球場に足を運ぶのに…。それとも、日本食が世界に波及したように、今後…スケートもフットボールもベースボールも日本の応援が世界標準になるのだろうか…? そうならないことを祈りたい…。 日本…がんばれ… |
日本人のほとんどの人が、宗教はなにかと問われると、無宗教と答えると言われるが、欧米ではそう言う人は人間として信用されないと聞く…。 私が誰かに問われれば仏教と日本神道と答える。 だが、正直、どちらもあまり熱心な信者ではない。仏教的には年に数度家の仏壇に向かって経を唱え、親族・知人・仕事関係・恩人の葬式で違う宗派の経を聞くだけである。それに比べれば、毎月一日に日本酒を氏神様に供えているから日本神道は、それなりに信仰していると言えるかも知れない。 さて話はここからである…。私は毎朝…この世の創造主・天御中主・大日如来・薬師如来・不動明王・弘法大師・天照大御神・田心姫命・荒神・土地の主・イエスキリスト・アベマリア等々を頭の中で思い浮かべて感謝することが日課である。 なんでもありの…こんな私を欧米人はなんとみるだろう? 無宗教と答えるのも問題だが、私のような…なんでもありは、欧米的には、よけいにやっかい者かも知れない。 この間までfacebookの自己紹介の交際関係の欄にオープンな関係を選んでいたが、最近分かったことに…欧米人にとってオープンな関係とは、奥さんがいるのに他の女性と付き合ったり、同時に複数の彼女を作って遊んだりする人のことを言うと知った。 慌てて訂正したが…、どうも私は国際的には通用しないようだ。 宗教は?と問われて、仏教と日本神道の二つを答えるなんて、欧米的には理解されないのかも知れないなぁー。 インターナショナルを意識して明日から真言宗とだけ答えようかしら…。 |
今朝、犬を連れて遅めの散歩に出た。夏休みに入っているから、いつもなら小学生が列を作って登校する道には誰もいない。小学校の校庭に面したフェンス越しに若い男性の姿が見えた。良く見るとホースで花壇の植物に水をやっている。おそらく普段生徒が育てている草花が休みの間に水切れして枯れないように世話しているに違いない。 生き物を飼っている学校もあるだろうに、その場合は休みでも生徒が順番に世話しにくるのだろうか…。私の小学生の時には動物を飼っていなかったから分からない。 “いきものがかり”なんてグル―プがあるけど、グループの命名にあたって、彼らはその役割の重さを実感した経験があるのだろうか…? 皆で育てた草花が、夏休みの間に枯れてしまうことを経験することも大切かもしれない。 皆で育てた動物が、夏休みの間に死んでしまうことを経験することも大切かもしれない。 そうしたら、命の大切さや、命を育てることの大切さを思い知ることができるだろうから…。 (今時、動物が死んだら先生の責任になりそうで、放っておくわけにはいかないと思うけれど…。) 若い男の先生の横を通り過ぎる時、彼のほうから“おはようございます。”と笑顔で挨拶してくれた。私も“おはようございます。”とすぐさま答え、“誰も見ていないようだけど、私は見ているよ…あなたが子供達の悲しい顔を見ないように頑張っているところ…。”と声を出さずにそっと続けた。 |
ロンドンオリンピックの開会式を観た。 あのスタジアムの床下はどうなってんだろう?と、思った。 ローマのコロッセオと同じように、地下に猛獣や奴隷がいる部屋があるんだろうか? なにしろ煙突が入ってるんだから…。 開会式がここまでイベント化されてきたのは、いつの時代からだろう? 東京オリンピックの頃はもっとシンプルだったように思う。 一人用のジェット推進装置をつけたロケットマンが登場したロサンゼルスオリンピックからだろうか…? 開催国の歴史を短時間でみせる演出は北京オリンピックが圧巻だったが、今回も負けないくらいに頑張ってたように思う。 ビーンも、最後に出てきたポールマッカートニーも老体に鞭打って頑張ってたなぁー。 もし今回のオリンピックが東京で開かれていたら…と考えてみた。 きっと…キティちゃんの縫いぐるみがいっぱい登場して、ドラゴンボール追いかけて孫悟空が会場を飛び回って…、途中でスクリーンに3Gの初音みくが登場して、それにきゃりーぱみゅぱみゅも登場して、最後の締めに由紀さおりが熱唱するんだろうか…? よう分からん国やなぁー、我が国は…。 東京オリンピックの開会式に行ってみたい。 |
私のギターは1974年のスペイン製ハンドメイドである。ギターの先生によると無名の職人が作った私のギターは二流の上というランクだそうだ。しかし国産のどのギターよりもいい音色だとも言ってくれる。 先生は1910?~1970年に作られたスペイン人の“ホセ・ラミレス”というギター職人が立ち上げたギター工房で作られたギターだけを認めている。因みに今作られるラミレスは認めない。 もちろん先生は何台かラミレスのギターを持っておられる。 それに、もう一台先生の手作りギターという物があって…これが先生の自信作だ。以前ラミレスを使わずに自作ギターで録音してCDを作られたこともあるほどなのだ。 ギターを作ることのできる先生に、二流の私のギターを一流に近づけるために、これまで2回、私のギターを先生のギター理論に基づいてチューンナップしていただいた。1週間先生の工房(ギター教室の片隅)に預け手直しをしてもらうのだが、正直言って、これまでは、今一つ変わり具合が分からなかった。 今週の木曜日に3回目のチューンアップのために先生に預けた。そんな時は、代替えギターを貸してもらえるのだが、今回は先生自慢の手作りギターを貸していただけた。 手作りギターはやけに私のギターより良い音色である。私も少しは音色を聞き分けられるようになったのかと思うと同時に、先生への尊敬の念が深くなった。今回のチューンナップは期待できそうに思う。 先生にギターづくりを教えた職人は、出来上がった先生のギターの音色を聴いて職人の道を諦めたと言う。 先生は、どうしてギター職人にならなかったのだろう? ギター弾きでいたかったからなのだろうか…? 私にだけ、1台作ってほしいと言ったら作ってもらえるだろうか? ギター弾きの先生に、そこまでは頼めないなぁー。 |