残酷な殺し方というものがあるのだろうか? 攻撃用ヘリコプターの暗視カメラで、上空から捉えられ、本人が訳分からずにミサイルで体を木端微塵されてしまうことと…、 アメリカ本土からゲームのように無人機を操縦して、人を殺すことと…、 首を切り裂いたり、火あぶりで人を殺すことと…、 原爆で人も町も、全てを破壊することと…、 どれが一番残酷か?などと誰が決めるれるのだろう? それは明らかに殺す側の論理に違いない。 殺される側には、死はどれも同じ結果でしかないように思う。 |
昨日、町で何人もの人から声をかけられた。一人は35年振り…。私との再会を喜んだ。彼は若い時にいっぱい遊んでいたことで、昔に出会ったいろんな人たちが今の財産になっている…と、言った。 私は遊び人ではなかった。若い時にもっと遊んでおけば、もっと人脈が広がったかも知れない…と思った。 |
自分が変われるかどうか? 今は、できると思う。 夢中になれるものがみつかっている時… 極端な制約のある環境に入った時… そして、そんな状況に自分を追い込むことができれば、簡単に変われるに違いない。 今の自分は自分だけれど、未来の自分ではない。 未来の自分は、今の自分が知らない自分であるように、変わり続けていたいな。 |
私も、大きな声を出すことがある。 怒っているつもりはないけれど、側から見るとそう見えるらしい。 自分の意見、意志を伝えようと思うと、大きな声になる。 私の場合、血圧が上がるのを避けないといけないのだけれど… ついつい、大声が出てしまう。 静かに諭すように自分の思いを伝える術を持つまでには、まだまだ時間がかかるかな? この世でそれができるかな? 今は冷静になれている自分がいる。 |
今、私の管理する会場の床にワックスを塗っている。 今日は業者にやってもらっているが、たまに私が掃除する。 掃除仕立ての床に、おそらくヒールのかかとで床を蹴って歩いた黒い筋がついていることがよくあり、特にワックスを塗った後は目立つので、すぐに掃除する。部分的に掃除すると、そこのところだけワックスが剥げるからやっかいだ。 歩き方に難がある人に違いない。本人は気が付いていないのだろう。 生きているということは、誰かに迷惑をかけているし、心配されていると思っていい。 その分、見えないところで誰かがフォローをしてくれると思い、誰にでもなく自然と感謝の気持ちを持つことが大切だ。 自分の付けた足跡は、たまに振り返ってみた方が良いように思う。 |
同じ問題が目の前にあって答が必要な時、誰もが同じ答えを選ぶことはなく、時と場合によって自分でも違う答えを選ぶ。選ぶべき答えは、経験の数と経験を活かす能力によって変化する。経験には失敗も大切な要素だから、経験値を高めるには失敗も必要に違いない。この世の中が人と言う物体をとおして経験する場だとすると、失敗も楽しんだほうが良さそうだ。 |
今日は、車を運転していて、何度も“あなた、轢かれたいの?”と、つぶやいた。 赤信号の横断歩道を堂々と渡っていて、車が近づいて停止したのに見向きもしないし、足取りを速めることもない女性。 運転している私と、目が会っているのに車に向かって歩き始め、横の男性に腕を掴まれ歩道に戻される女性。 渋滞で停止している私の車の前で立ち止まっていた人が、わざわざ車が動き始めてから、私の後ろを渡ろうとしてクラクションを鳴らされる女性。 どうして、自分の命を自分で守れないのだろう? この国から、自己責任という言葉が無くなりつつある恐怖を感じた。 誰かが、“他人を信用してはいけない”という事をもっと教えないといけないと思うのだ。 |
時間’というものは、時計をイメージするように、この世の全てにとって同じ間隔を刻んでいるように思われがちだが、実は明らかに全て違う進み方をしており、条件の変化のなかで一つの個体でも時と場合によって流れの速さが異なっているように思う。 完成させることが目的であるのなら、同じことをするのに一日かかる人と、1年かかる人や、一生かかってもできない人もいるだろうから、それらの人達が同じ時を刻んでいるとは思うには無理がある。 時間というものは、他人との共通認識の概念としてあるだけで、生きた成果を基準とすると所謂同じ年齢であっても300才と10才くらいの開きのある人間がこの世に混在しているように思う。 そう考えるなかで自分の年齢を考えてみると、やはり年相応かなと思うのである。 あまり、難しく考えないほうがいいかもしれない。 |