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自然派の気ままに一言

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2010-08-09

津軽編 青森ねぶた編

カテゴリー: 日記
今回の津軽(青森)の旅は、太宰治調?で書こうと思う。

私は、気付くと津軽行きの電車の中で、キオスクで買ったハイボールを持って、無名の短編小説を読んでゐる。この時期、自動車でイライラして移動するより、電車のはうが快適に過ごせる。なんせ、自分の時間を、雑踏に邪魔されなくてすむ。隣の若者は、なにやらゲームに夢中である。しばらくすると、睡魔が、私を襲ってきた。

目が覚めると、終着駅の八戸。新幹線は、年末に此処から更に北の青森へと延びる予定である。
其処彼処に、「東北新幹線 八戸-青森間開通 12月4日」の垂れ幕が目に入る。特急「つがる」への乗り換えのため、在来線乗り場へと足を運んだ。
私自身、今回の旅には納得して無い。直前まで、足繁く「みどりの窓口」へ通ったが、寝台列車はたうたう取れなかった。旅の最初の目的だっただ
けに、残念でしょうがない。

「つがる」へ乗り込むと、私の隣の席に、また先程の若者がゐた。なにやら、向こうもこちらに気付いていたやうだが、相変わらず、ゲームに夢中である。なんてこと無いが、目的地を同じ者を安易に並べたただけで、国鉄の手抜きの犠牲となっただけかもしれない。

1時間も乗っていると、終点の津軽へ到着。首尾よく、ねぶた祭り最終日の運行に間に合った。ねぶたは昼間の2時間、市内の巡回路を練り歩く。夜間は、その年選ばれた山車が前の海上を運航し、花火大会が催されるやうだが、今夜の宿に行かなくてはならない。
初めてのねぶたに、私も気持ちが高揚してきた。童心に返って、前へ前へといそぐ。山車は、中央下部に大きな車輪が1つ付いてをり、その周りを人が囲うやうに押してゐる。
上には、正面には鬼?、動物、背面には女神、動物などが飾り着けられてゐる。先導役が前にゐて、観客のために山車を横に向けたり傾けたり細かに指示を出し、うまく舵をとる。
この暑さに、運行する者は先導についてゆくのがやっとなのだ。休んではまた進み、吹き出す玉の汗を拭いながら、「ラッセラー」の掛け声に、気力だけで前進する。




その後を、太鼓、笛、手振り鉦(金属製の皿のような楽器)を鳴らしながら、踊り部隊が「ラッセラー」の掛け声のもと、踊り歩くのだ。
連日の疲労の蓄積と暑さのせいで、ごく一部の人を除いて、こころなし元気が無い。

(西日本の代表的な祭りは、男性が山車を担いで時間、速さ、また、人の勇姿を競う男性的で、演じる主体の自己満足が強いものが多いような気がするのである。こうゆうものばかりではないが・・・。 
一方、飾り物に趣向を凝らし、全体を通して、見るだけでなく老若男女参加できるのも祭りの醍醐味ではないかと思う次第である。)

この祭りを本当に楽しむには、夜の祭りであろう。時間の都合で、夜見できないのが残念でならない。こう云うものは、一度経験しないと分からないのが、世の常である。

本日は黒石まで行かなくてはならないので、国鉄へいそぐ。この度は、「青森・函館フリーキップ」を利用しての汽車旅行で、兎に角、都合がよい。往復の指定席(寝台可)に津軽ほぼ全域と、函館周辺の旅券が、一定期間乗り放題なのだ。
ただし、国から見捨てられた第三セクターのローカル列車は、運賃を払わなくてはならない。自動車社会とはいえ、まだ、このやうな地元の足は数多く存在する。


弘前駅にて


青森ねぶた編終了

次編へとつづく
2010-08-10

津軽 弘前編

カテゴリー: 日記
青森を出て、程なく弘前へ入る。ここは、かつて弘前城を中心として栄えた城下町である。
新興都市として広がる青森市に比べ、ところどころ旧市街の趣を残すのが弘前市である。
現在、弘前城は、弘前公園として開放されている。

だが、本日、黒石まで向かわねばならない。黒石はローカル線、弘南鉄道の終着だ。よし、まだ時間はある。弘前公園へはバスで行くことにし、駅の案内所に向かう。
2、3人、同じような観光客が道を尋ねている。私の番がまわって来た。早速、弘前公園は?と尋ねると、案内の娘さんは、ニコッとしながら市外図を広げてくれた。循環バスが出てると云う。色の付いたペンで地図を辿りながら、2番乗り場から乗って市役所前で降りて下さいと云う。この時間は、もう中央の天守へは入れないと教えてくれた。ありがとうと云ってその場を去る。

しかし、日が傾く前とはいえ暑さが皮膚を射す。ようやく、バスが到着し、一路目指すは弘前公園。バスに揺られてるうち、市役所前と案内放送が流れ、ここで下車。



東門から中へと入ると、芝の広がる閑寂な風景である。地元の若いカップルがなにやら、楽しそうに方言をしゃべっている。少し前を、日除け帽を被った年配の夫婦が、川の方を眺めながら歩いている。
あまりゆっくりしていると、帰りの循環バスに乗れなくなるので、なりふり構わず天守へと走った。
とにかく無心に走った。メロスは黒い風のようには走った。・・・・

天守周辺は有料領域となっており、入口では切符の売り子が帰宅の身支度をしていた。
もう終わりですか。はい、5時で有料時間は終わりです。時計を見ると、あと5分で5時になろうとしていた。じゃあ、そこで待ちます。先程の若い男女がやってきた。声をかける間なく、売り子の方へ行ってしまった。横に私がいたせいか否か定かではないが、売り子がこちらを見ながら、先程と同じように、5時からは無料ですとの説明をしていた。

5時になった。天守を横目に一目散、奥の展望所を目指す。実は、天守周辺が目的ではなく、弘前公園から見える岩木山が目的だった。この岩木山は、白神山地の北に位置し、津軽富士と呼ばれるほどこの地方では象徴的な山で、まさに富士山を彷彿させるような形状の山である。列車の路線が、この山を囲うように周辺を走っており、何処からでも観賞できる。
残念なことに、新緑の木々のせいで若干、視界が狭かった。季節を間違えたようだ。




それでも岩木山の幽玄な姿に感動を覚えながら、帰路へと向かう。門へ近づくと、日本一・・・と云う文字が目に付く。よく見ると、日本一太い幹をもつソメイヨシノというやう
なことらしい。場内建物の裏口付近にあるので、注意しないと気付かずに通り過ごしてしまそうだ。弘前公園は、桜の名称としても知られており、春には観光でにぎあう。


  
私は、信頼に報いなえればならぬ。いまはただその一言だ。走れ、メロス。・・・・
メロスは弘前駅へと走った。

ここから、弘南鉄道で弘前から黒石へと向かったのだった。



黒石 盛美園編へと つづく 
2010-08-11

津軽 黒石 盛美園編

カテゴリー: 日記
周りもだんだん暗くなって参りました。
弘前のねぷたは既に幕を閉じまして、駅舎周辺も人影はまばらでございます。

私くしは、黒石へ向かうため、弘南鉄道の列車へそそくさと乗り込んだのでした。列車は地方でしか見られなくなった旧車両が2両つながっており、簡素でいて、どこか懐かしさを感じます。
私くしがこちらに来て、まず驚きましたのが列車の扉横についている押しボタンでございす。どうもこれは、扉を開閉するためのボタンのようです。
この地方を走る普通列車は、皆、この押しボタンがついております。
勝手が分からず列車の発車前、開かないなあと扉の前で待っておりましたところ、後ろの方がどうしたんだろうと云った表情で押したので、扉が開きました。このとき、初めて押しボタンを押さないといけないことに、気付きました。我ながら、照れくさくなったのを覚えております。

列車はゆっくりと進み一駅ずつ停車してまいります。最近の列車のように自動の冷却機器は付いておりません。天井の方を見ると扇風機が備え付けられており、涼しげに回っております。それでも、暑いので窓のつまみを持って上方に上げようとしましたが、顔が外に出せるほどは開かないのです。
自然の風を受けながら、終着の黒石までひと時の旅でした。

黒石に着くと辺りは真っ暗で、遠くが見渡せるほどの明かりもございませんでした。
幸い駅の近くに宿を取っておりましたので、応対してくれた老婆に部屋を案内していただき、旅の疲れもあって、床に伏せたのでした。
なお、黒石には、こみせ通り云う黒石藩の旧商家が集まったそのままの町並みが残っております。
黒石では床に就くだけとなりまして、観光はできませんでした。

歳をとりましたせいか、年々目覚めるのが早くなっております。昨晩、寝つきが早かったこともあって、早朝5時には目が覚めました。階下のでごたごたと音がするので行って見ますと老齢のご婦人方が朝の支度をしておりました。
早いとは思ったのですが、6:30に食事をお願いすると、大丈夫ですとのことでした。なんせ、本日もせわしく移動して東京まで帰らなくてはなりません。また、運行する列車の本数も限られており、分刻みの予定メモを片手に津島家まで伺なくてはなりません。
(津島家:太宰治の斜陽館)

その前に清藤家へ伺う予定でございます。こちらは、黒石より壱里と半ほど列車に乗り、津軽尾上で降りまして、そこから半里ほどの処にございます。
今夏公開されます“借りぐらしのアリエッティ”のモデルとなった建物がございます。
なんでも、現在、盛美園と呼ばれ明治時代の三名園の一つだとのことでございます。
和洋折衷の建物ばかりが話題となっておりますが、名に恥じぬ美麗な庭園が実に見事に調和しております。
宮崎駿監督一行が、社内旅行でお見えになり、ひどく感動された?様子が目に浮かぶようです。





建物に入って一階の日常間は拝観できましたが、残念ながら、二階の寝室などは立入禁止で覗くことはできませんでした。しかし、建物の中から見る庭園の景色は、誠に筆舌に尽くし難いものでございました。

清藤家を後にし、津軽尾上から弘前へ戻ることになります。
途中、列車の右手に聳え立つ岩木山の姿が絶景でした。
津軽尾上の次の駅で一枚撮影いたしましたので、ご覧ください。



ここからはまた、せわしく移動ばかりでございます。

(ところで、私くしの夫はどこにおいででしょうか?大谷を見かけた方がおられましたら、ご一報くださいませ。)

ではそろそろ、このへんでお暇させていただきます。

次回は、夫の故郷 五所川原、金木をご案内させていただきます。

2010-08-12

津軽 金木編

カテゴリー: 日記
金木は、私の生まれた町である。・・・・


弘前から奥羽線を下り川部で列車を乗り換へる。川部からは五能線で鯵ヶ沢方面に向かひ、五所川原を目指す。車窓から無数に広がるリンゴ畑の景観を眺めながら、間近に寄っては離れる岩木山の姿に圧倒され、のどかな田園風景など楽しむ。
善く言えば、自然豊かであり、悪く言えば、何もないのである。

母親との小旅行だろうか。向かいの席に座る女の子が、リュックからお菓子を取り出し、はいと云って母親に差し出している。そんな光景を恍惚と眺めていると、ふと、昨日のねぶた祭りでの出来事が身をよぎった。
一行に混ざって函館・・・と記された山車が、目の前を横切った。友情出演といったとこだらう。ひときわ活気ある団体で、きっと1日限定の模様だ。
「イカ刺し、塩辛、イカそうめん・・・」と手を頭上に三角に組み演舞している。あまりに馬鹿馬鹿しくて、滑稽である。近くの祭りにもボランティア参加してくれないだらうか?

いよいよ五所川原だ。ひとまず、ここを過ぎて津島家のある金木へと赴く。津軽鉄道の乗り場は、到着ホームより階段を上がって、一番奥のホームだ。まるで、私を歓迎してくれるかのやうに、ホーム両脇には引退した列車が鎮座している。その横に、私の作品「津軽」の一節が掲示してある。ありがたいことだ。川端康成氏もこの現実を知れば、少しは私の作品に対する評価が変わったかもしれない。



ようやく列車が到着する頃になると、立侒武多(たちねぷた)の文字をあしらったシャツに鉢巻をした娘さんが、やってきた。なんでも、祭りの宣伝と観光案内を兼ねて、列車に乗り込むとのことだ。一両づつ計2名のねぷた娘と一緒に、実家のある金木を目指す。
久しぶりの故郷に、我ながら胸の高ぶりを押さえきれない。

列車の中は空調管理され快適だが、天井に吊るした風鈴の音色が一層、涼感を引き立たせる。この風鈴は地元産の焼きもので出来ており、実に小粋な計らいである。



金木に到着。まず、私が一時、疎開先として過ごした新座敷の前を通る。ここは、生家の離れとして建立されたもので、23作品ほど執筆したのが、なんとも懐かしい。
そこから細い路地を抜け、突き当たりを右に曲がると、津島家である。
現在、表札は津島ではなく、斜陽館になっている。きっと持ち主が変わったのだらう。



昔は子沢山の大家族が当たり前で、私にも多数の兄弟がいた。それにしても“この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。”
相変わらず、ただ大きいだけである。家に中を歩くだけでも疲れる。この家にはいったい何部屋あるのだろう。おまけに蔵が3つときたものだ。
その蔵には、私の遺品と生活用具が陳列されている。

おっと懐かしい。昔、私が羽織ったマントと同じものではないか。善くこれを、わざとボタンを掛けずに羽織り、洒落た格好で町に出かけたものだ。観光客が私の真似をして、お道化ているではないか。どうせなら、もう少し、さりげなく着こなしてほしい。
奥の蔵に入りると、兄への手紙が残っているではないか。兄から借りた?百五十円について言い訳がましく、返済すると書いてあるやうだが、色んな人に借りがあったので、返したかどうかは定かでない。今思ふと我ながら、情けないやら滑稽やらで、恥ずかしい限りである。

そろそろ五所川原へ戻る時間が迫ってきた。



急遽、生まれ故郷だけの話となったが、勘弁してもらいたい。
口惜しいことに、津島家の中は、動画しかないので写真はなくあしからず。

明日は、五所川原を案内する予定である。
2010-08-17

津軽 完結編

カテゴリー: 日記
金木を後にし、五所川原へ

駅舎傍らに仁王像のようなねぷたが二体、市内に目を輝かしている。(飾られているねぷたは、祭りの出し物よりまだ、小型らしい。)五所川原のねぷた像は、電線の普及に伴い低頭化したそうだ。地元有志により十数年前より、懐古の大きさに復活を遂げたそうだ。



市内中心部の展示館には、夜祭りの到来と共に建物前面(地上4階)が開放し、内部に展示の立侒武多が出陣する。その高さたるや22mもあり、地上4階からようやく全貌が判る程だ。実に三体が陳列されており、どれもこちらを威嚇している。
口惜しいが、今宵の出番は拝めない。



場内では定刻毎に映写により歴史と文化が紹介される。私にはそんなことはどうでもいい。らせん階段を下りながら、像の些細を観察するのだ。



もう一つ、珍妙なものがある。
五所川原特産の赤いりんごだ。何を当たり前のことを言ってるのだとお思いだろうが、このりんご、皮だけでなく果肉、花、若葉、枝まで全て赤いのだ。りんご王国、青森でも此処でしか出会えない。
お土産にと、お菓子(唯一の赤りんご菓子)を持参して帰ることにした。他に果実酒、果実飲料などがある。飲料液の色は、当然朱色で、少し酸味が強い。旅の思い出に一杯、口にした。



やれやれ。旅も終盤を迎え、青森へと列車を乗り繋ぐ。
復路便の出発まで小一時間。駅傍の海鮮市場で総括に、海鮮丼を。ネタはどれも地元でしか味わえない新鮮さ。海の幸を堪能しながら、青森ご馳走様!

太宰治 四方山話

太宰治は、極度の人間不信だった。というより、ただ世間を達観していたかもしれない。幼少の頃より、処世術に長けており、道化という手段で度々、周囲との距離を保った。
また、型枠にはまるのが嫌いで、生涯彼は煩悶していた。
井伏鱒二に師事していた頃の一つの逸話がある。ある日、井伏宅を訪問する約束をしていた。定刻になっても太宰が現れないので、井伏は不信に思い玄関先に出た。すると、軒先に太宰が居て、何を話していいか判らず恐縮していたという。
数多くの女性と一緒に何度も自殺未遂を起こしているが、人(世間)を「怜悧狡猾」といって機嫌するなど、自分を見出せないまま人生を完結させてしまう。
小説の中で、自身の人生の様を純粋かつユーモラスに表現し、魅力としてなおも人々の心を擽るのかもしれない。
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