金木は、私の生まれた町である。・・・・
弘前から奥羽線を下り川部で列車を乗り換へる。川部からは五能線で鯵ヶ沢方面に向かひ、五所川原を目指す。車窓から無数に広がるリンゴ畑の景観を眺めながら、間近に寄っては離れる岩木山の姿に圧倒され、のどかな田園風景など楽しむ。
善く言えば、自然豊かであり、悪く言えば、何もないのである。
母親との小旅行だろうか。向かいの席に座る女の子が、リュックからお菓子を取り出し、はいと云って母親に差し出している。そんな光景を恍惚と眺めていると、ふと、昨日のねぶた祭りでの出来事が身をよぎった。
一行に混ざって函館・・・と記された山車が、目の前を横切った。友情出演といったとこだらう。ひときわ活気ある団体で、きっと1日限定の模様だ。
「イカ刺し、塩辛、イカそうめん・・・」と手を頭上に三角に組み演舞している。あまりに馬鹿馬鹿しくて、滑稽である。近くの祭りにもボランティア参加してくれないだらうか?
いよいよ五所川原だ。ひとまず、ここを過ぎて津島家のある金木へと赴く。津軽鉄道の乗り場は、到着ホームより階段を上がって、一番奥のホームだ。まるで、私を歓迎してくれるかのやうに、ホーム両脇には引退した列車が鎮座している。その横に、私の作品「津軽」の一節が掲示してある。ありがたいことだ。川端康成氏もこの現実を知れば、少しは私の作品に対する評価が変わったかもしれない。
ようやく列車が到着する頃になると、立侒武多(たちねぷた)の文字をあしらったシャツに鉢巻をした娘さんが、やってきた。なんでも、祭りの宣伝と観光案内を兼ねて、列車に乗り込むとのことだ。一両づつ計2名のねぷた娘と一緒に、実家のある金木を目指す。
久しぶりの故郷に、我ながら胸の高ぶりを押さえきれない。
列車の中は空調管理され快適だが、天井に吊るした風鈴の音色が一層、涼感を引き立たせる。この風鈴は地元産の焼きもので出来ており、実に小粋な計らいである。
金木に到着。まず、私が一時、疎開先として過ごした新座敷の前を通る。ここは、生家の離れとして建立されたもので、23作品ほど執筆したのが、なんとも懐かしい。
そこから細い路地を抜け、突き当たりを右に曲がると、津島家である。
現在、表札は津島ではなく、斜陽館になっている。きっと持ち主が変わったのだらう。
昔は子沢山の大家族が当たり前で、私にも多数の兄弟がいた。それにしても“この父はひどく大きい家を建てたものだ。風情も何もないただ大きいのである。”
相変わらず、ただ大きいだけである。家に中を歩くだけでも疲れる。この家にはいったい何部屋あるのだろう。おまけに蔵が3つときたものだ。
その蔵には、私の遺品と生活用具が陳列されている。
おっと懐かしい。昔、私が羽織ったマントと同じものではないか。善くこれを、わざとボタンを掛けずに羽織り、洒落た格好で町に出かけたものだ。観光客が私の真似をして、お道化ているではないか。どうせなら、もう少し、さりげなく着こなしてほしい。
奥の蔵に入りると、兄への手紙が残っているではないか。兄から借りた?百五十円について言い訳がましく、返済すると書いてあるやうだが、色んな人に借りがあったので、返したかどうかは定かでない。今思ふと我ながら、情けないやら滑稽やらで、恥ずかしい限りである。
そろそろ五所川原へ戻る時間が迫ってきた。
急遽、生まれ故郷だけの話となったが、勘弁してもらいたい。
口惜しいことに、津島家の中は、動画しかないので写真はなくあしからず。
明日は、五所川原を案内する予定である。
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