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こんにちは。 前回に続き、高校編2のお話です。 ・・・・ 前回お話した物理部ですが、もう一つの大きな活動内容があります。 「アニメ」です。(^^; もちろん書くのではなく、見て語るです。 この頃から本格的にアニメにはまってしまいました・・・。 その頃、はまってしまったが「トップをねらえ!」です。(エースをねらえではありません) SFもののかなーりマニアックなアニメです。 でもこの監督は、かの有名な庵野監督です!トップはしらなくてもエヴァンゲリオンは知ってますよね。 この監督、本当にオタク心がわかっていると思います。 このアニメにはまったせいで、声優にもはまってしまいました・・・。 主人公の声を担当していたのが日高ノリコさん、あのタッチの南ちゃんです。 当時、地元で毎週で放送されていたラジオ番組が楽しみで楽しみでたまりませんでした。(^^; 最初は聞いているだけだったのですが、そのうち番組の中でネタを募集するようになり、ためしにネタを送ってみたらなんと読まれてしまいました!(当時は葉書ですよ) これに味をしめたあっちゃんは毎週のようにネタを投稿しまくります。 するとだいぶコツを掴んでしまい、ほぼ毎週読まれる常連さんになってしまいました。(^^; そのうち毎回ペンネームをアレンジしてわざといいにくい名前を言わせてました・・・。(マニアックネタばかりをペンネームにしてたんです、ひどい) そしてこの番組、ネタが読まれると記念にキーホルダーをくれるんですが、それをカバンに取り付けていたところ、最後は30個以上数珠繋ぎになってしまい、何だかわからない塊をジャラジャラつけた状態に・・・。 自分の中では誰も知らないと思って勲章のようにつけていたんですが、後日自分が地元を離れたあと「あのキーホルダーを山のようにつけていた人が最近いなくなった」とラジオで読まれたようで、ある意味知っている人は知っていたんですね、恥ずかしい・・。 そういえば、この日高さんには、一度ラジオ局まで会いにいったことがあります。 1時間くらいかけて最前列で中の様子をみてました。(^^; 最後にサイン会があって、「藤田です」っていったら「あのいつも葉書をくれる藤田さん?」って言われてもうそれだけで嬉しかったですね。 色紙とTシャツにサインをもらって大喜びで家に帰りました。 後日、その大切にしていたTシャツも一度だけ着たことがあります。 なんと、全校のマラソン大会です! みんなは俺のシャツに何かグジャグジャ書いてあるくらいしか思わなかったと思いますが、物理部の連中にはそのTシャツが輝いて見えたことでしょう。 そうそう、こんなオタクな活動ばかりをしていた高校生でしたが、実は勉強もできました!! ・・・といいたいのですが完璧ではありません。 得意なのは数学と物理だけ、後はぜんぜんだめでした・・・。 だめなほうでいうと社会科関係はいつもテストの点は一桁でしたね。 英語も偏差値30代くらいだったかな・・、国語は20代くらい・・。 社会科と英語は覚えてないと何も書けないので仕方ないですが、国語は日本語のわかるところは全部書いたのに片っ端から×でした。 納得いかなくて何度も先生に文句にいったものです。(^^; 個人的には国語の答えには○も×もないんじゃないかと思っています。 本当にその作者がそれを考えて書いたのかは作者にしかわかりませんし、それは捉え方によってどうにでもなると思っています。 それに対し、得意だったのは数学ですね。 学校は進学校でさらに理系クラスに分かれていたのですが、数学だけは偏差値80くらいでした。 しかも途中から本気モードになって100点を連発する状態に。 たしか6回くらい連続で取ってました。もうそれが全てのように命をかけてました。 98点だと悔しくて涙したものです。(^^; そうそう、これで調子に乗って全国模試でも力を発揮することに。 マークシートのテストでも100点を取れたんです! この試験、成績優秀者は後日雑誌に掲載されるんですが、ここですごいことに! なんと偽名を使って試験を受けていたんです。 そう、その偽名は「ジャンロックラルティーグ」!! って誰も知らないですね。「ふしぎの海のナディア」で日高さんが担当していた主人公です。(この名前を知っている人は立派な庵野監督のファンですね!) 試験の時、漢字の名前はもちろん本名で書いているんですが、そのフリガナがマークシートになっていたので変えたんです。 普通に人がチェックすればマークシートの名前が異様に長いってわかるんですが、そこは機械、ちゃんと正しくフリガナで印刷してくれました!(^^; しかし、そんな調子に乗っていたあっちゃんも先生の一言で撃沈です。 「君、数学だけで行ける大学は1つもないよ」 「ガーーーン!」、それは知らなかった・・・。 3年生になってから急いで英語の勉強を始めますが、もうどうしょうもないですね・・・。 結局、大学入試までには間に合わず、何とかいけそうな学校を探して、そこを受けて無事合格です。 そしてもう卒業まで残りわずかとなったとき、物理部の後輩から連絡が。 「先輩のソフトが入選しました!」 なんと! 実は後輩がパソコンソフトコンテストに応募していたのですが、本来は後輩が作っていたソフトを応募する予定だったのですが、応募直前に間違えて消してしまい何もなくなってしまいました。 そこで後輩が「先輩のあのソフト代わりに出してもいいですか?」っていってきて、「いいよ、ただし入選したら賞品半分頂戴ね」って。 そんな冗談みたいなやりとりで応募してたのに、グランプリに入選してしまったのです!! 入選したソフトは「ラインアニメーションソフト」です。(^^; 今だとCGって当たり前ですが、当時は全然なくて、あのTRON(初期版)のような感じの線だけで描くアニメーションソフトです。 3Dではなかったんですが、Flashのようにシーンを定義して、そのシーンごとにこの線がここに動くってのを定義しておくとそれが毎秒60画面でスムーズに動くというやつです。 人がトコトコ歩いたり、イモムシを動かしたり・・、アニメのセンスはうーんですね。 でも中身はアセンブラバリバリで高速化の限りを尽くしてました。 ループ展開して処理ドット数のポイントに直接ジャンプさせるなど。 でも審査員からコメントを1つ頂いて「シーン定義でマウスが使えると良い」とのこと。 当時、学生にはマウスは高くて買えませんでしたから~。(^^; しかも学校での授賞式にローカルTV局もきて、撮影されたとき背景にはキキのパン屋の看板が置いてありました・・。(^^; これも自作でオタクのパワーはすごいですね。 さらにスタッフが何か簡単にアニメ作れない?というので即席で作りました。 なんと当時は湾岸戦争真っただ中だったので、アメリカが核ミサイルを撃って爆発させるというアニメです。さらにその後にUFOが下りてきてセリフ(忘れました)をいうというものです。 冗談で見せたらカメラマンが気に入って撮影していき、実際にTVに放映された後はアナウンサーが言葉に詰まって「こうならないことを願いましょう」と言ってました・・・。 結局、賞品としてパソコンと賞金(30万位?)をもらったのですが、賞金は全部物理部に寄付し、パソコンだけもらいました。 そういえば今更ながら思い出しました! この知らせを受ける前日、実は学校の帰り道にタヌキが死んでいたんですね。(田舎なので・・) で、そのまま放置しておくのもかわいそうと思って近くに埋めてあげたんです。 この翌日だったので、おタヌキ様がお礼をしてくれたんでしょうか。 そんなあっちゃんも無事卒業し、東京へと上京します・・・(続く) |
こんにちは。 前回に続き、acchan誕生秘話【高校編1】をお話したいと思います。 (いつも長くてすみません、1回に書ききれませんでした) ・・・・ パソコン少年まっしぐらだったあっちゃんも無事中学を卒業して地元の高校に通うようになりました。 高校は進学校だったので男女比が一定ではありません。確か2:1くらいの男女比でした。 でもその頃は全く恋愛感情などもっていなかったのでなんとも思っていませんでした。(^^; そして高校でどんなサークルに入ろうかと思ったとき、見つけてしまいましたパソコンがある部を。「物理部」です、いい響きですね。 今から考えると「パソコン部」ってやっぱり当時はマイナーだったんですね。 高校で唯一パソコンを持っているのがなぜか物理の部なんですから。(^^; しかもその物理部、活動内容が「パソコン」「無線」「アニメ!?」でした。 最後のは全く関係がないですが、なぜか・・というか今の時代もそうですか。 パソコンが好きな人にはアニメ好きが多かったんです。 もうオタク街道まっしぐらです!! そうそう、オタクってこの頃からでてきた言葉なんですよね。 語源はてっきり宅八郎さんかと思っていたのですがwikipediaをみたら以下のようなことが・・。 秋葉原(電気街)とオタクの関係については、1960~70年代の中学~高校世代のアマチュア無線家やオーディオファン、1970年代になって現れる初期のパソコン嗜好者たちが秋葉原の専門店で、大学のサークルや研究室で、顔見知り程度の愛好家仲間の間で、「お宅はどのようなアンテナをお使いですか?」や「お宅のスピーカーは自作品ですか?」といった会話を日常的に交わしており、1970年代の若年アマチュア無線家の多くが、当時、既に「おたく…」と呼び合っていた。 ああオタクって秋葉でのパソコンや無線だったのね、と知ってある意味すごく納得しました。(ちなみに後述の大学ではオーディオPAを扱い、秋葉に毎週通うようなサークルにいました・・・) そんなあっちゃんも1つ人間らしいことが。 なんとみんなが嫌がっていた応援団に入ることに! ・・というかクラスで各委員を決めるときに一番誰もやりたがらずに残ったそれにじゃんけんで負けて決まってしまっただけというのもありますが。 これにより、放課後は物理部でパソコン・無線・アニメに励む日々と、応援団として屋上で校歌振り付けの練習を行う日々が始まります。 そういえば当時の無線はすごく楽しかったです。 今だと携帯を普通に持っていますが1990年頃の学生なんて誰も携帯もっていなかったんですよ。ポケベルも地方じゃ珍しくて誰も持っていませんでした。 それなのに物理部のオタク連中だけはポケットに入るくらいの小型の無線機を持って24時間通話無料で話していたんですから。 しかも結構な距離が届いて数十kmくらいは平気で届いてました。 無線の唯一のデメリットは「他人にも丸聞こえ」なところです。(^^; TVのチャンネルを変えるようにコロコロ回すと他人の話がいくらでも聞けたもんです。 でも話す方も聞かれているのがわかっているのでプライバシーに関することは全部伏字です。 逆にメリットとして、何人でも同時に同じチャンネルに入れること。 みんなで順番に「次○○さんどうぞ」って感じに回していくとみんなで会話ができます。 (同時にしゃべるとグジャグジャになりますが) 最初は部活が終わった後に夜に集まってまた他愛もない話ばかりしていたんですが、そのうちにどんどんエスカレートしていって、カラオケ大会になったり、オカマとして女のフリをしたり・・・もう「みんなが聞いている」を前提に楽しんでましたね。(^^; オカマの時は久々に会った先輩をだましきることもできました・・、ひどい。 そんなことをしているうちに3年生に。 日頃の「献身的」な部活動が認められたのか、物理部部長になってしまいました。 部長になって最初の仕事は新入生の勧誘でした。 例年、体育館で各部活の内容を新入生に発表する機会がありました。 テニス部は素振り、剣道部は試合など・・ですがさて物理部は何にしようと考えた末、当時みんなで楽しんで実験していた「ペットボトルロケット」をすることに。(空気を入れて飛ばすやつです) 「次は物理部です」といわれたとたん今だとちょっと引いてしまいますが、学生テロのように演出してみんなサングラスにマスク、軍手にヘルメット、作業服の格好で一気に壇上になだれ込みました。かたやモデルガンでパンパン打ち合って、自分はバズーカ砲の形をしたペットボトルロケットをセットして中に空気をどんどん送り込みます。 通常、各部活の発表の時、体育館の左右に構えている応援団から野次の嵐がくるのですが、自分も応援団です。そのバズーカ砲を応援団に向けると全員引きつった顔に! そしてついに体育館の天井に向けて発射です! しかし!!予想外に飛んでしまい天井にドカンとぶつかって新入生のもとへ落下しました。 壇上もずぶ濡れになってすぐにモップ隊が出動です・・・。 こんなとんでもない発表を物理部として行って、当然先生からも大目玉をくらってしまいました。(でも一応物理の実験ですね) そうして翌日、新入生の部活動初日、数名くらいはくるかなと思ったら、なんと物理教室いっぱいに40-50名くらいの新入生がきて立ち見が出るほどです!!しかも女の子までいます!! 全く予想していなかった状況にこちらが大慌てです。(そもそも2、3年生合わせたって10名もいないんですから) とりあえず日々の物理部の「楽しい活動」を説明して解散しました。 しかし数日後には予想通り、ツワモノだけしか入部届けを出しませんでした。(^^; ・・・・ そろそろ紙面も尽きてきましたのでまた次回。 (3000文字って結構短いですね) |
ネットリサーチ会社マクロミルから「結婚と恋愛に関する調査」が発表されました。 (http://www.macromill.com/r_data/20110204renai/index.html) これによると独身男女の84%が「結婚したい」と考えているそうです。 ちなみに女性のみでみると2年前は78%が結婚したいだったのが、今年は88%になっているそうです! 女性の結婚願望が確実に上がっているようです。 (ちなみに男性は、2年前79%⇒今年82%) さらに興味深いのは、結婚相手に求めるものが年代により変化していくことです。 例えば女性は男性に経済力があることを求めがちですが、これを選択している率は、徐々に下がってきます。 20-24歳⇒48% 25-29歳⇒43% 30-34歳⇒43% 35-39歳⇒29% いわゆる女性も年齢を重ねると経済力がある程度あるためと思われますが、30代後半になると、「頭の回転が速い27%」「笑いのつぼが合う18%」などといったものがTOP5に入ってきます。 より人間性を見るということでしょうか。 ちなみに男性はほぼ一貫して「優しい」がダントツですね、よくわかります。(^^; ちなみにここでは婚活としてどんなことをしていますか?って聞いていて、以下のような順位でした。 71%:合コン 52%:友達の紹介 21%;出会いサイトを利用 19%:趣味やサークル 8%;お見合いパーティー 4%:結婚相談所 最近はmixiやツイッターもあって、こういう出会いも多いのかなって思っています。 皆さんはここ以外にどんなところで出会いを探していますか? |
こんにちは。 前回に続き、acchan誕生秘話【少年編】をお話したいと思います。 ・・・・ 右も左もわからないままパソコンを使い始めたあっちゃんは、無事中学生になりました。 今まで1人で孤独に使っていたパソコンですが、中学生になるとクラスの中にもちらほらとパソコンを持っているという友達が現れます。 しかしその頃のパソコンはガラパゴスの象徴的なような時代で各メーカー全く互換性のないパソコンを出していました。 FM-7やPC-6001、X1、MSX、ぴゅう太みんなそれぞれ全く違う環境なので友達同士でゲームを借りて遊ぶこともできませんでした・・。 その頃のゲームを思い出すと、惑星メフィウス、ハイドライド、ちゃっくんぽっぷ、ブラックオニキス、テクザー、イース、ザナドゥ、信長の野望、ああ懐かしい。(皆さんもやっていたゲームありますか?) 確か信長の野望はBREAKキーでゲームを途中で止めることができました。 止めるとソースが丸見えで、パラメータを変更して自分を強くしたら全くつまらないゲームになってしまいました・・・。 ある意味これは絶妙なバランスが考えられていたんですね、反省。 そしてその頃になるとBASICだけでは飽き足らずアセンブラを勉強するように。今だとCがありますが、当時はそんなものはありません。一部ありましたが中学生にはとても高くて買えません・・・。(数万円くらい?) なので1人黙々とアセンブラの本を読みながら試行錯誤で勉強です。 アセンブラのいいところはとにかく速いこと。CPUは2MHzですが、アセンブラはほんとクロックサイクルにあった高速動作で動いてました。 そしてそのころに大好きだったRPGを自作してみようと考えます。 アセンブラとBASICでフィールドマップを移動して敵を倒して武器を買って、最後はボスに挑むというものです。 名前は「NOGARD」・・、つまらなそうなゲームですが、当時はゲーム自体が少なかったので自分で作るしかありませんでした。 そのうち、ファミコンでドラクエが発売されたときも、「俺ならこういうシステムにする」ってさらに改良を加えました。 NOGARDの続編ではチーム制を導入し、戦闘も戦場マップモードになって戦う形にして、武器や魔法にも属性をつけ、頭・腕・体・足毎に体力値も持たせ、BGMや効果音も自分で作って、どんどん本格的な作りになっていきます。 (ゲームを作るときはドット絵のキャラクターエディタとかも事前に作っていました) そうして「NOGARD」シリーズは結局4作目まで作っていました・・・。 しかも、最後のボスのHPは1000兆くらいにしてましたね。(^^; ドラクエが発売されるたびにライバル意識で作っていました。 しかし!! なんとこのゲーム遊んだ人は5人くらいです。(つまらないからじゃないです!) 当時はインターネットもなく、そもそも同じ機種のパソコンを持っている人もほとんどいません・・・。 そのため家で何ヶ月もかけて作った大作のRPGも遊んだのは一部の友達だけでした・・・。 それでもうれしかったというのはある意味すごいパワーがあったんでしょうね。(^^; また、RPG以外にもアドベンチャーゲームも作りました。(この名前を思い出すのにも時間がかかりました) 勝手に宇宙のどこかの星につれて行かれて、異性人の星で街中や浜辺を探検していくストーリーです。 もちろん完全オリジナル、イラストも自分で書いて(全くかわいくないですが・・)、何十枚もシーンを作りました。 しかもその頃は今のようにマウスもないので、紙に書いたイラストの上にサランラップを載せ、ペンでなぞってそれをTV画面に貼り付けて、カーソルキーでなぞるという作業です・・・。 当然色は8色しかないので、肌色とかは微妙なタイルパターンを研究します。 [赤黄白黄赤黄白黄] [黄白赤白黄白赤白] こんな感じで色を出すときれいな肌色に見えたりします。(^^; 当時はライバルのアドベンチャーゲームをTV画面の間近で見て、どんなタイルパターンか研究したものです。 進行もコマンドで「ナニヲスル?」って聞かれて「バカ」とか入れるとすぐゲームオーバーにしてました。 このゲームも遊んだのは数人くらいですね・・・。 そんな生活でしたが、中学生の3年生のとき、当時の学校にはパソコン1台はおろか、サークルもなかったので友達とパソコン部を作りました。 数人だけでしたが、ほんと楽しかった毎日でした。 また、その頃はゲームを作るだけでなく、I/Oという本に載っている長大なソースを打ち込んでゲームをすることにも燃えていました。 覚えている方もいるかと思いますが、I/Oは16進ダンプで何十ページもあるようなソースがよく載っています。 しかも字が小さい! 定規をあててもとても指でもなぞれないので拡大コピーをしてからそれを友達数人で分担して入力してました。 16進ダンプの入力には専用のソフトを開発して、キーボードのテンキーをA-Fにして入力する毎日でした。 学校から帰ってパソコンの前でずっと16進を黙々と打ち込んでいる様子を後ろからみていた親はさぞ不安だったことでしょう・・・。 慣れると、だいたいアベレージ256バイト5分でした。そのうちほかの事を考えながらも入力できるようになり、ある意味いっちゃってますね。 ・・・・・・・・・ ああ素敵な少年期ですね。 もうだいぶ長くなってきたので今日はここまで。 次は高校編です!(^^; |
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