マダムの店では、今…町で一番人気のパン屋のパンを使ってローストビーフサンドやオリーブオイルだけ塗ってさっと焼き上げたスライスしたバケットをメニューに出している。 フレンチレストランを経営していたマダムはシェフに料理を任せていたから自分自身は、あまり料理が得意ではないと言う。そんなマダムは、料理の素材と調味料やオリーブオイルには、神経を使っていて、そんな彼女が選んだパンを使ったサンドイッチだから、私も週に一度はワインのあてに食べに行く。 先日食べに行ったとき、マダムが、こう切り出した。“今日のパンは、いつもより香りが少ないと思いませんか?いつもは包丁を入れたときにパッと広がる香りがあるんですけどね…。” そう、言われてもピンとこない私の言葉を待たずに、マダムは続けた。“シェフに言ってあげようかしら、でも余計なお世話だと思われるかな?電話では話しにくいからFAXを入れようかしら…どう思われます?”と聞かれて、私は“マダムなら、言ってあげてもだいじょうぶだと思いますよ!”と、幾分無責任に答えた。 あくる日、入れたてコーヒーを飲みに行ったマダムの店で、思わぬ顛末を聞かされた。 “昨日あれからFAXしたら、しばらくして突然シェフがやってきて、香りが薄かった考えられる理由を二つ説明してくれたの…一つは当日の温度変化…急激に気温が下がったので室温調整がうまくいかなかった…もう一つはお店が長期休暇をとっていた後の火入れだったので短期発酵の状態がいつもと変わっていたかもしれない…と説明してくれて、味はお店に出してもいいレベルだとスタッフと話し合って店頭に出したが、この度のマダムの指摘を受けて、お客様の目は鋭いといいということを肝に命じ、これからもっと厳しい姿勢でパン作りします。”と言って帰ったと言うのだ。 私には、分らない専門性の高い物づくりの話である。 この度の話で、マダムがシェフ仲間から一目置かれていることが良く分かった。 マダムの感覚を信じているから、これからもマダムの店に通うことになるだろう。 |
今朝、島のホテル(以前話したホテルではない。私の町には島と呼ばれる埋立地が二つあり、今回は町に近いほうの島だ)の宴会場で、あるタウン誌の発行4周年記念のパーティーがあり、音響の仕事で朝8時半現地入りの予定で出発した。ホテルの業者用入口で音響の先生が搬出入口の警備員と入館について話をしていたら、パーティーの開始時間が18:00だと指摘を受けた。 すぐさま音響の先生は主催者に電話してみると、やはり夕方開始だと分かり、なんと一旦退散することになった。 私たちは午後2時に出直したが、セッティングだけ手伝って、私だけ自分の仕事の関係で先に会社に戻ってきた。 私は大人のふりして口には出さなかったが、えらいええかげんな話だと思う。 主催者も音響の先生もお互い最終確認ができていなかった。このたびのような間違いは、結構仕事を、慣れでやり始めると起こってくるものだ。 音響の先生は主催者から電話で仕事の依頼が来た時、同じ出版社の前回のパーティーが昼間にあったから、今回も同じ開始時間だという…思い込みが強かったに違いない。これが、開始時間が逆だったらえらいことだ。夕方からだと思っていたら昼間のパーティーだった…なんてことになったらどうするんだろう。 ぶつぶつ… 血圧が上がらないように、ここに書いて発散しておこうっ…と。 実は、全然私の血圧は上がっていない。このくらいのことで、もう私は動じない。こんなことはよくあることだ。少なくとも私が手配する仕事で、こんなミスはないし…。 |
先日、ランチに会社の近くのミシュランで一つ星をとった日本料理のレストランに行った。一つ星と言ってもランチは\950.のおにぎり定食もある…気取らない雰囲気の店である。友人とその知人の…初めて会うセレブとの3人で予約しておいた。 初対面という事もあり料理の内容はあまり覚えていないが、セレブの話は興味深く面白かった。彼女はともかく、よく外出しているようで、おいしいレストランや料理教室や陶芸教室など世間の情報に明るく、一人舞台でいろいろ情報を話してくれた。 なかでも、ひょんなことから頸椎の矯正を専門とするカイロプラクティックの治療院の話になり、以前から首に違和感を覚えていた私は、ランチの終わり頃には一度出向いて行かないといけない羽目になっていた。 今朝、会社を抜けて治療院に行くと彼女が待っていて、先生を紹介してくれた。 カイロプラクティックと言っても、体を音を立てて矯正する例の治療法ではなく、金属の棒を使って運動の法則を利用して第一頸椎のゆがみ治すおので、体に触れるか触れないかも分からないソフトな治療法である。 それが、治療後に確実に違和感がなくなり首の可動範囲が広がったから驚きだ。 私は、この治療院に通うことになるだろう。今後目に見える回復があれば詳しく書いてみたい。 治療後、この治療院を紹介してくれたセレブと話をしていて分かったことには、戦前彼女の祖父母と私の祖父母は同業で顔見知りだったと言うのだ。これは正に奇遇である。実は生まれてこの方…自分の祖父母を知る人と出会ったことがない。 神の思し召しというのだろうか…初めて会う私に手厚く対応してくれた彼女に近い存在に感じた。 きっと、私の首の違和感はよくなるに違いない。 |
昨日、居留地研究会の事務局長(歴史研究者)と私の町の“まちづくり”のボスを引き合わせた。 そもそも、私は活性化に成功している町というものは、町に住む人、商う人、その他関わる人が、町に誇りを持っているということが大前提だと思う。 町に誇りを持つ人が多くなれば、ゴミ置き場に指定日以外の投棄がなくなり、車や自転車の違法駐車がなくなる。そうすれば、来訪者が気持ちよく過ごせるようになり、それを感じた町の人が訪れる人々を心から迎える姿勢が根付いていく…。 そんなプラスの連鎖が起これば、しめたものだ。 歴史のある町は、他には類のない町造りができるはずだ。 だから、町造りを行うために、最初に始めるべきことは、その町の歴史認識の、町全体での共有だと思う。 ソフトありきで、次にハードの充実が大切だと思う。ハードだけをリニューアルしても、いつまでも続かない。 私の町のボスは、頭の柔らかい方だ。これまでにも、会独自で街の歴史を見直す活動もされている。 昨日の私の二人のマッチングが、町の活性化のための一助になれば幸いである。 |
前回のギターレッスンの時の、先生との会話でのことだった。 先生のアルハンブラの思い出の演奏を聴いて、ベースを弾いた後の最初のトレモロまでに間(溜め)があることに気が付いた私は、そのことを先生に話した。すると…先生は弾いていないトレモロがある…と一言答えた。それを聞いて私ははっとした。言い換えれば、弾いていないのに弾いているように聞こえる音がある…と…。 私が20才代前半の頃、レンブラントの原画をもとめて、欧米の美術館巡りをしたことを思い出した。何枚もの原画と接して、レンブラントの絵画は、描いていないのに描いているように見えることを知った。細かく描かれているように見えた衣装の装飾や宝飾品の表現は、近づいてみると思いもよらず粗いタッチなのだ。それでも描いてあるように見える。 レンブラントは、人がどのように物を見ているか分かっていたに違いない(目が悪かったとも言われるが…)。同じように人は音楽も一音一音をクリアーに聞き分けているわけではなく、音を流れとして聞いているのに違いない。 音を流れとして理解した私は、確実にギターの腕がワンラック上がった。 これから、他人の演奏を聴いた時にも、今まで聞こえなかった音楽が聞こえるに違いない。 これが開眼と言うものだろう…。 |
昨日ちょうど新しい車の一ヶ月点検だった。恥しい話…車をコンクリート壁にぶつけた。 いつも通る道ではなく初めて通るナビの指示する道を走行中に(ナビのせいにしてはいけない)、左折の指示があり、その先に直角に曲がるコーナがあった。あまりにも幅員が狭いので一瞬躊躇したが、後ろの車が迫っていることもあり、まぁー行けるか…と判断して、軽くアクセルを踏んだら後部扉付近でバリバリと言うボディが軋む音が聞こえた。 幸いと言うか…、当たったところがコンクリート壁だから警察に届けることもなく、そのまましばらく走って、路肩に寄せて傷跡を確認すると…情けない…なんとも情けない。フレーム上の問題はなさそうだが、ドアは見た目にボコッとへこんでいた。 昨日から頭のなかにモヤがかかったような状態が続いている。扉は修理すれば、元通りになるが…、この私の年で、読みの甘い判断をしたことが悔やまれる。 誰にも怒られることのない立場の私は、この場を借りて自分自身の不注意を悔いる。 経験を積み重ねてきた…歳…相応の悔いのない人生を送ろうと…と深く心に刻む。 二度と事故は起こさない。 |
私が、6年前に突然の背中の痛みを覚え入院し、あまりの痛さに数日間眠ることができず、痛みに耐えていた時、世の中には今自分が経験している痛みより、さらに大きな痛みに耐えている人がいるのだと分かった。 経験とは、自分自身の喜怒哀楽の許容量を増してくれるもので、新たな経験をするためのステップだと思うのだが…。 世の中には、経験した自分の痛みを忘れてしまう人がいる。腰の骨が崩れ寝込んでいた人が、手術を行い痛みは残ったものの、まがりなりにも歩けるようになったが、完全回復しないものだから手術が失敗だったと言って回っている。分けあって手術前の説明に本人の隣に立ち会った私は、執刀医が痛みを和らげる手術であり、完治を目指すものではないと、しっかり説明を受けていたのだが…。 どうして、歩けなかった時の苦しみを忘れてしまえるのだろうか?どうして、今歩けることの幸せを噛み締められないのだろうか? そのことを、いくらその人に言っても通じない。 そんな人は、新たな経験が巡ることなく、不平不満をもって人生を終えていくのだろうか…? 今からでも、執刀医への感謝の気持ちをもってほしいと願う。 |