私のひとまわり年上のマダムは、お店のホームページを持っていて、ブログとツウィッターを書いていて、さらにユーストリームチャンネルで動画を配信している。 彼女の年齢で、よくそれだけのことができるものだと思われるだろうが、実は機械音痴でパソコンもお持ちでない。 携帯のメールを送る程度のこと以外、自分では全くおできにならない。 彼女には、強力なサポーターがおり、例の謎の京都人なのだが…、お金は一切取らずにマダムのお店のホームページ作成から管理を引き受けている。例えばマダムは書いた文章をメールで京都に送り、謎の京都人が受け取り数時間後にアップするという具合である。 マダムは魅力のある人だ。だから私も彼女になにかしてあげたくなる気持ちは分かるが、京都人が何故そこまでマダムに肩入れするのか分からない。 マダムのブログに毎日目を通している私は、マダムが前回5月23日に更新してから、何も書かなくなってしまったことが残念だった。ちょうど一月経過した6月24日に、マダムにそのことを伝えた。 マダムは最近、一日4通の手紙を書くことを心に決めて、それに時間をとられ更新していなかった。1ヶ月もほったらかしたとは思わなかった…。と、少し感慨深げに言われた。 その晩の彼女のブログには、私(名前を隠して)に指摘され、これからまた更新していくと書かれていた。 そこまでのシステムを作成した謎の京都人が更新されないことを寂しく思うのに、マダムには話せないと言うジレンマに代わって私が話したことは誰にも話さないでおこうと思う。 |
昨晩、台湾生まれの知人と会社の近くにある、初めて行く四川料理の店に行った。 この店は知り合いのフレンチのシェフから一皿の量が一般的な中華料理の店に比べて少ないから小人数で行ってもいろんな種類が食べることができると勧められた。 予約を入れておいた私たちは、まだ客のいないオープン直後の店に入った。 若い女性が“予約されていますか?”と尋ねてきたが、そのアクセントが中国語訛?のある日本語で、庶民的な雰囲気の店のなかでは仕事以外の会話でも中国語が飛び交っていた。 昨年末に行った台湾のレストランより、この店のほうが外国を感じた。 料理は、いっしょに行った知人の好みもありマニアックな野菜中心の料理が多かった。全体にあっさりめの感じ…。なかでも“空芯菜の炒め”600円は炒める時のソースを選べたので“かにみそ”にしてみたが、野菜とソースの絡みが最高であった。 ところが、今日になって思いかえしてみると昨日食べた他の料理のインパクトがあまりない。 次回は、もう少し重たい料理も頼んでみようと思う。 今朝マダムのブログを見ると、同じフレンチシェフにすすめられて昨晩水餃子のおいしい店に行った話がかかれていた。この店も気になるところだ。シェフが美味いと言う店は間違いなくおいしい店だと思う。 ところで、フレンチのシェフの店は最近暇そうだ。景気悪化でバブルの時にできたフレンチの店は、みんな維持することが大変みたい。でも流行っている店は流行っているしな…。 近いうちにシェフの店にも、また食べに行こうと思う。 |
一昨日神社に行った帰りの道で5年振りに出会った人が、ぶっきらぼうに2年前に私の会社の役員を退任してもらった前代表だった私の知人について話始めた。 この二人の関係は、10年前まで同じ会社の株主と株を持たない代表という緊密な関係であったのだがが、8年前に仕事上のトラブルから争いがおこり、結局裁判所で法的決着はつけたものの、今でも遺恨の残る仲である。 会社の代表を務めてもらった知人は今でも、私のビルの一室で私の援助のもと自分の会社を立ち上げ、私と毎日顔を合わせている。 ぶっきらぼうな話は、私の知人が大嘘つきで昔大変な目に合された。私が彼に騙されないよう注意するようにとの内容だった。その話を聞かされ、現在両人とは深い利害関係のない私は適当に聞き流した。翌日ビル内で知人に出会った時に、彼の天敵に出会ったことを話すると、彼も同じように相手のことを罵った。 私は両人のことを悪く思っていないし、どちらにも尊敬するところもあると思っている立場であるが、それぞれの話をまともに聞くとお互いとんでもない極悪人同士という事になる。 二人とも昔は同じ目的に向かって力を合わせて努力したことだろうに…悲しい結末だ。 昨日の友が今日の敵ということは世の中にはよくあることだろう。そうなると相手の粗ばかりが目につくようになるに違いない。例え意見が食い違っても相手の尊敬できる部分を見つめ合うことができればどれだけいいだろう…と思うのだけれど、そんな私は人間が甘いのだろう。 いずれにせよ、この二人とは今後、深い利害関係を持たないようにしようと思う。 |
一昨日、出会ったイラン人の主宰する団体のホームページを見た。 団体の理念に関連して、イラン13世紀の大詩人、サアディ―が詠っている言葉が書かれていた。 「人類はみな、一つの本質からなり、手足と同じように、一人一人がつながっている。ゆえに、もしどこかが痛めば、ほかの部分も痛みを感じずにはいられない。汝がもし他人の災難に胸を痛めないなら、その時は、もはや人と呼ぶに値しない。」 世界中のすべての人間が、この考え方のもとに生きたら、世界から戦争がなくなり、飢餓が無くなり、独裁がなくなり、愛に満ちた世界になるだろう。 “この考え方を持って、活動する人がいるという現実…。” “この考え方が世界の主流になることは無かったし、これからもそれは不可能だという現実…。” 世界の平和を、まだ見つめて生きていない私は、現実を直視しながら、今できることを始めてみたいと思う。 一昨日の出会いは、そう考えさせられる…ひと時であった。 |
先日、懇親会で私の前に座った女性がバイオリン店の店主だったので、私が日頃思っている楽器に関する質問を投げてみた。 “高いバイオリンは、やはりいい音色なのですか?”と、聞いてみた。 答えは“高いバイオリンがいい音色…という事はありません。いい音色だから高いのです。” なるほど…と、思った。 “ギターの先生が、そのうちに私がもっと良いギターをほしがるようになるから、お金を貯めておくように言うのですが、私は今のギターで充分なのですがね…。”と、聞いてみた。 答えは、“自分の技術が持っている楽器のレベルを越える時が来るのです。その時に自分のレベルに合った楽器が欲しくなるのです。” なるほど…と、思った。 しかし、夫婦に例えたら、えらいこっちゃな…。何回も離婚、結婚繰り返さなくちゃいけなくなるからね…。何度も結婚する人がレベルが高くなっていくなんてことになったら道徳的にどうなんだろう? でも、同じかもしれんな…。 この間のフランスの大統領も、そんな感じだったし…。 音楽の話を通して、退屈な懇親会が楽しいものになった。 近いうちに彼女のバイオリン店を訪ねてみようと思う。 |
私の友人が、facebookのなかで、彼の知人の…世界中を渡り歩いているフリーカメラマン(先日私を訪ねてくれたカメラマンではない)のエッセイに いいね! をチェックしていた。 私も、そのカメラマンと面識がある。 私は酒を飲むと限りなく下品に崩れてしまうカメラマンが、あまり好きにはなれなかった。 このたび、はじめてカメラマンの文章を読み、彼の人生における経験の深さを少し感じた。下記にその文章をのせておく…。 ------------------------------- 記 ------------------------------- 私の旅 友人の本を読んだのを切っ掛けに自分の旅を振り返ってみた。思えば青春時代のほとんどが旅であり、今もその中にいる。「人の人生は旅のようなもの」と云うが、私の場合は「旅そのものが人生」である。勇気、無謀、旅立ち、戸惑い、孤独、悩み、寂しさ、無知、親切、不親切、友情、病、死、事故、盗難、貧しさ、餓え、忍耐、暴力、無視、嫉妬、権力、結婚、家族、子供、親、兄弟、友、異性、国家、亡命、他国、国境、革命、指導者、宗教、戦争、自然災害、テロ、暴動、抵抗、デモ、異文化、芸術、涙、愛、挫折、勇気、痛み、おそらく人が人生で経験する全てのことを私は長い旅の中で経験した。友人の旅は青春時代で終わったのだろうか。私の旅に終が無い。 今は体の各パーツを修理している最中だ。どうしても修理の効かない部分もあるが、それは長い間、酷使していれば起こることで、自覚していれば、まだ使える。若い時と同じようには出来ないが、まだまだ旅は続ける。そして写真を撮り続ける。 ----------------------------------------------------------------- 文章みるとかっこいいんだけどなー。 しかし“女・酒・ギャンブル・麻薬・陰謀・裏切り”も書いてほしいな。 やっぱり彼の人間性は好きにはなれない。 私もそんなこと言われないように普段の“生き方”気をつけなくちゃー。 |