第二巻までは、財前も自分のポリシーを貫いているという点で、潔いと書いたが、裁判の過程における態度は、医者として以前に、人間として怒りを禁じえない。なぜ、山崎氏は裁判の前に、財前に、ヒトラーによるユダヤ人大虐殺のドイツにおける負の遺産を訪れさせたのか?これにより芽生える人間の生の尊さと、人類の愚かさを裁判中には思い起こす記述がない。自分の既得権の確保と、大学の名誉の維持という大義名分のもとに、あえて感情を封印したのか?それとも、全く罪の意識がないのか?どちらにしても、モラルに反する態度には変わりない。私のもっとも嫌う行為だ。
裁判に対する、里見と柳原の苦渋の選択が対照的だ。家庭を持ち、コンサーバティブになって当然の里見が、あえて自分の立場を危うくしてまで真実を語るのに対し、若さ故の正義感を示してしかるべき柳原が、事実を封印する。里見の妻の現実的な意見も頷ける。それでも真実を語ろうとする里見には、尊敬という言葉では軽すぎるほどの態度だ。私に同じ事が出来るだろうか?私一人なら、たぶん、里見と同じ行動をしたと思うが、家族がいたらと想像すると、恥ずかしながら自信がない。
最後の裁判官の言葉が印象的だ。判決は原告の敗訴だが、裁判官の言葉だけを聞けば、原告勝訴に聞こえる。それでも、一向に反省の色を見せない、財前陣営。絶望的結末だ。しかし、これが現実だ。娑婆では、正しい者が勝つわけではない。勝った者が正しいのだ。その理不尽さを受け止めろとの、山崎氏のメッセージが伝わってくる。そして、それを変える事の出来るのは、やはり娑婆に生きている我々各個人の意識改革からしか方法はない。絶望的結末から来る怒りが、世の中を変える。そう考えたに違いない。
本来、この小説は、この第三巻で終わっていた。それが、あまりにも残酷だという読者の多数の意見で続編として書かれたものが、次に続く、第四巻、第五巻だ。しかし、私としては、この終わり方に非常なインパクトとメッセージ性を読み取ることが出来る。続編が良いかどうかは読後に述べよう。とにかく、読むのを止められない。 |