今月は、10年振りで北海道に行く予定である。主な目的は2件のフランス料理のお店へ行くこと・・・一つのお店は私の知り合いがオーナーシェフとして開業しているレストラン。もう一つのお店はフランスの三ツ星レストランで、東京などの都会での出店を避け、わざわざ食材の宝庫である北海道の大自然のなかで営業しているレストラン。短期間で2件のフレンチのはしごは、私の年齢ではかなりお腹にきついハードな旅ではあるが・・・まぁー私の旅の目的がもはや見れるものは何でも見ておこうというサイトシーイング的発想ではないので、横浜へ墓石を見に行ったり、北海道へフレンチ食べに行ったり、考えようによっては、自分の興味のあるものを追求するために時間を費やしているわけだから結構贅沢な旅ではないかと思う。決して朝から晩まで雲丹・蟹・イクラを食べたいわけではなく料理と雰囲気を味わいたいわけで・・・。そうそう、それと時間を費やせる目的があるという私は幸せなんだと思う。これも子供の手が離れ、独身気分の今だからできる旅なのかもしれない。 私の究極の贅沢な旅はやはり船旅かな・・・今回の旅とは違って、なんにも追及しない旅で今日が何曜日か分からなくなるような時間を過ごしてみたい。あと10年くらいしたら、そんな旅に出てみたいな・・・ |
墓地のなかのある墓碑に刻まれた文字を確かめるために、今月横浜へ行く事になった。その用件は1時間もあれば事足りるので、日帰りにしようかと思うのだが・・・さて、その行き方を悩んでいる。横浜だと飛行機で行くのもたいそうだし、普通なら新幹線が順当だが、ふと片道夜行バスという手もあると思いついた。バスと言えば30年前アメリカをグレイハウンズに乗って旅した時以来・・・宿泊費を浮かせるために夜のバスに乗った日々が懐かしい。 前日夜にバスに乗り朝に到着して、夕方に新幹線で戻るか、当日朝に新幹線を利用して帰りに夜行バスにするか・・・バスで10時間の旅で私の年齢になると、どれだけ体力を消耗するだろうか・・・考えてみれば、どうでもいい悩みである。しかし、もうしばらく悩む事になると思う。この手の悩みは少しはあったほうが人生楽しい・・・ 結局、やっぱり行き帰りとも新幹線にするかも知れない。 |
世の中には、周りから見ていて絶対失敗するよな・・・と思うことを続けている人がいて、それこそ経験豊富で、先読みの鋭い人からすれば、世の中は失敗するべくして失敗する人だらけなんだと思う。簡単なことだが成功には成功する理由と手順・失敗にも失敗する理由があるんだろう。どうして義務教育として、子供に成功するための手順とか、負け犬の分析なんて授業がないんだろう。きっと、みんながみんな勝ち犬になると、今の勝ち犬の人達の面白みがなくなってしまうから、勝ち犬の旨みや優位性を保つために適当に負け犬を増やしたておいた方が得策であって、勝ち犬のために働く従順な犬を養成することが、教育の真髄かも知れない。そして私のような考えをもった人も、社会主義のように押さえ込んでしまわずに適当に野放しにさせてくれる・・・だけど勝ち犬を増やさない仕組みがしっかりできているから、体制を揺るがす大きな問題には発展しない。民主主義とはそんなものだと思う。 私は、成功の法則をこっそり誰にも言わずに実行して、少数の勝ち組に入りたいと思う。 誰か・・・成功の法則を教えて・・・ |
知人から、“量子ドット”という言葉を初めて聞いた。これらナノテクノロジーの技術開発の進化がこれからの世界を変えると言うのだ。太陽電池の電気への返還効率が理論上60%とこれまでのものより数倍優れ、ほとんど電気を消費しないコンピューター、携帯電話サイズのプロジェクター、3D画像の情報に対応できる格段に効率の良い光通信が可能になると言うのだ。あまりの凄いテクノロジーに、こう書いている私は、なにか間違ったことを書いているのではないかと不安になる。ただ、これからの情報社会・クリーンエネルギーの世界を前に、知っておいて損のない言葉なんだろう。 世の中原理の分からない物ばかりが溢れ出した。 本当に人間が考えているのか・・・日用品となったパソコンの原理も分からない。 分かっている人も近くに居ない。 分かっている一部の人は、分からない多数の人と交わらないように、どこか別の世界で静かに生活しているのではなかろか・・・ |
今日、ある人のことで、“腑に落ちて”・・・その人は外見はおしゃれでスマート、笑顔も素敵で、話上手で聞き上手、交友関係も広く、絶対に人を裏切ったり落とし入れたりしない人・・・一見非の打ちどころのない人物だが、以前から彼と話をしていると、私が話したことを私の思いと違う風に理解したり、昨日まで信頼関係が築けていた人と急に険悪な関係になったり・・・なんだか、どのように彼を理解したらいいか分からなくて、どう接していけばいいのか分からなくて、ずーっと悩んでいたけれど、今日突然彼を理解できてしまった。彼は“人とコミュニケーションをとることが下手だ。”と言うことに気がついた。でもそれって・・・“もっと前から分かってたんじゃーないの。”と言われそうだが・・・ 結局、私が今日言いたいことは、“分かる”と言うことと“腑に落ちる”ということは“別の次元の話”ということで・・・“分かっている”と思っていることが、実は分かってないことって、世の中にあるんだと言いたいわけで・・・ 彼のことを腑に落とした私は、これから彼を自分のなかに包み込んで接することができるようになった。彼を掌握した私は、彼がいままでよりも小さく見えてきた。 |
時間というものは、地球が太陽を1周する間とか、地球が一回転するとかの間を等分して世界共通の単位が存在するが、そのスピードの感覚は人によって千差万別で・・・一生のうちに努力や才能が花開いて世界のトップになる人と平凡に生きて死んでいく人とを比べると、その人生の流れのスピードに大きな差があるに違いない。きっと、生きてる証を実感できる人は、すごい速さでいろんなものが自分に向かってやってきて、生きていることがつまらく思う人はナマケモノの動きのように周囲がゆっくり動いていて・・・ 私が若かった頃、ある人から「思った事をすぐに実行する習慣を付ければ、人生が変わってくるよ!」とアドバイスされたことがあったけれど、今になってその言葉の意味がよく分かる。時間の感覚スピードは、自分がコントロールできるもので、目の前の出来事をはやく処理すれば、そのスピードに合わせた時間が動き出すということ・・・ ナマケモノのスピード感が決して駄目だとは思わないが、もし社会の一員として、他者から評価されたいと少しでも思うなら・・・今よりほんの少し目の前の時間をはやく動かしたほうがいいかも知れない。 |
昨日、ある歴史研究家と時間を共にした。彼は私の調べている英国人の仕事場があった場所で戦中に空襲で焼失した洋館のあった地番を知っていて、私をそこに連れて行ってくれた。歩いていて突然、「ここにあったんですよ!」と、地面を指差した。今は近代的なガラス張りの建物が建っていた。 私が理解していた場所とは違っていた驚きよりも、戦前日本で生き、日本を愛した英国人の営みがあった同じ場所に今自分が立っている現実が私の心を昂ぶらせている・・・なんとも言いようのない初めての感覚に襲われた。 考えてみれば、どこでも史跡に立てば必ず歴史上の人物が過去にその地に存在していたわけであるから、別に今回のことで感慨にふけることもないのかも知れないが、きっと世界から忘れ去られた英国人への私の特別な思い入れがそんな感慨に浸らせるのだろう。 司馬遼太郎の坂本竜馬への思いも、きっと同じような物であったに違いない。 自分が歴史上の人物と同じ時間に存在しているような・・・なんとも不思議なひとときであった。 |
コンサートを聞きに言って、どこが終わりか分からなくて拍手のタイミングを人に合わせてしまうってことがあるけれど、(終わりと思って、自分から拍手したら、終わってなくて大恥かくかもしれないし・・・)そんなエンディングじゃーなくて・・・演奏した人も聴きに行った人もスタッフも、その場にいる全ての人が心から感動して、余韻のなかで沈黙が続くような・・・そんなコンサートに行ってみたいな。 そんなコンサートは、演奏中はみんなが別の世界に行ってしまって、この世に戻ってくるまでの束の間の時間が、“静寂という余韻”になるんだろうと思う。そんなコンサートに行ってみたいな・・・ “Chicago”の日本でのファーストコンサートも結構良かったけれど、そこまでいかなかったし、4年前フェスティバルホールでの“Keith Jarrett”のコンサートも結構良かったけれど、そこまでいかなかったし・・・ケルンコンサートに行きたかったな・・・ 私は、まだ私の理想の余韻を味わっていないように思う。 |
あれこれ手を付けずに、一つのことに集中したほうが、目標の達成ができる・・・という考え方は分かるけど、私自身の経験のなかでは、絞り込んだ目標に集中して、そればっかりにかかっていると、能率が悪くなったり行き詰ることがあるから、なにか気分転換できる趣味とか話し相手があったほうが良いように思う。一つのことに集中できる時間には限度があるし、大体仕事の“できる人”は、気分転換のうまい人が多いものな・・・。そしてそんな人は趣味でも、結構本格的で一般の人のレベルを超えてしまってるように思う。結局、“集中”と“気分転換”の両方をうまくこなすことが目標達成のために大切なんだと思う。 さて、映画化されるストーリーを作る目標を持つ私は、気分転換に何をしようか・・・今は気分転換してる時のほうが多すぎるかな・・・ |
朝ゆっくりした日に散歩に出かけると、小学校生の通学時間と重なって、数人固まって登校してくる小学生に出会う。横断歩道には会社を退職(?)して数年経つのだろう老年の男性が旗を持って子供達を誘導している。そのおじいちゃんの一人の方の姿をしばらく見なかったもので、どうされたのか心配していたのだが、今日久しぶりで顔をみることができた。思わず、初めて、その人に“おはようございます。”と挨拶した。その人も慌てて“おはようございます。”と言ってくれた。 見ず知らずの私に、約2名の小学生が笑顔でちゃんと私の目を見て・・・“おはようございます。”と言ってくれる。慌てて“おはようございます。”と応える。なんだか、やられた感が湧いてくる。親の躾なのだろう。“おはようございます。”という挨拶ができることで、その人の将来の“社交性”や“コミュニケーション力”をいかに培うか・・・ 今日は、学校の朝礼で使えそうな話になった。 さて、私は明日からすれ違う全ての人に“おはようございます。”と言えるだろうか・・・“選挙に出馬するんだろう。”と思われずに・・・ |