先週は、原因不明の高熱(40.3度)が出ました。お医者さんに診てもらってもこれといった原因がわからない。(インフルエンザでもなかった) 母は、お腹が痛いというのが続き昨日お医者さんに行って来たけど、別にどこどおっていうことはんかった。 そして、今朝、子供みたいに可愛いがっている猫のミィちゃんが誰かが仕掛けた罠に引っかかったらしく、けっこう大きな木片をぶら下げて帰って来ました。最初は何をぶら下げてるんやろう??と思って針金を切ろうとしたら噛みつきに来るし、まるでお腹から針金が出ているような感じだったので、動物に詳しいうちの信者さんに来てもらってよくよく見てもらったら、針金の罠にハマってどう全体に針金が食い込んでしまっていたみたいで、その罠を解いて下さいました。(~_~;) ミィちゃんは、最近はくくらずに自由にしていますが、どっかで誰かに迷惑かけているんだろうか?? いろいろ気になりますが、罠を振り切りよくうちまで重たい木片を引きずってでも帰って来てくれた。(*^o^*) なんかいろいろ厳しい時期のような感じがしますが、神様ほんとうにありがとうございます!!m(_ _)m ひろ |
『さあ/\尋ねる一条々々、十分一つ聞き分けば十分よし。神一条の道一寸難しいようなものや。一寸も難しい事はないで。神一条の道こういう処、一寸も聞かしてない。天理王命というは、五十年前より誠の理である。こゝに一つの処、天理王命という原因は、元無い人間を拵えた神一条である。元五十年前より始まった。元聞き分けて貰いたい。何処其処で誰それという者でない。ほん何でもない百姓家の者、何にも知らん女一人。何でもない者や。それだめの教を説くという処の理を聞き分け。何処へ見に行ったでなし、何習うたやなし、女の処入り込んで理を弘める処、よう聞き分けてくれ。内々へも伝え、身の内かしものや、かりものや、心通り皆世界に映してある。世の処何遍も生れ更わり出更わり、心通り皆映してある。銘々あんな身ならと思うて、銘々たんのうの心を定め。どんな事も皆世上に映してある。何程宝ありても、身の内より病めばこれ程不自由はあろうまい。自由自在心にある。この理をわきまえ。又々内々の処、銘々の処にも速やかの日がある。銘々ほんと思うた事あれば尋ねに出よ。 』(M21.01.08) |
『さあ/\だん/\の席返す/\の席をして、さあ一日の日というは生涯の心一つの理を以って一つ席とす。席に順序一つの理は、よく聞き分け。席に順序一つの理は、生涯の理を諭す。生涯の理を諭すには、よく聞き分け。難しい事は一つも言わん。どうせこうせこれは言わん、これは言えん。言わん言えんの理を聞き分けるなら、何かの理も鮮やかという。それ人間という身の内というは、神のかしもの・かりもの、心一つが我がの理。心の理というは、日々という常という、日々常にどういう事情どういう理、幾重事情どんな理、どんな理でも日々に皆受け取る。受け取る中に、ただ一つ自由という一つの理。自由という理は何処にあるとは思うなよ。ただめん/\精神一つの理にある。日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い。誠一つが天の理。天の理なれば、直ぐと受け取る直ぐと返すが一つの理。よく聞き分け。又一つ、一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まるという。それ世界成程という、成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という。よく聞き取れ。又一つ、これまで運ぶという、尽すという。運ぶ尽す中に、互い扶け合いという。互い扶け合いというは、これは諭す理。人を救ける心は真の誠一つの理で、救ける理が救かるという。よく聞き取れ。又一つ、これまで運ぶ尽す一つの理は、内々事情の理、めん/\事情の理に治め。又一つ、第一の理を諭そう。第一には、所々に手本雛型。諭す事情の理の台には、日々という、日々には家業という、これが第一。又一つ、内々互い/\孝心の道、これが第一。二つ一つが天の理と諭し置こう。さあ、これより先永く変わらん事情に。』 |
『さあ/\尋ねる処/\、そら成程世界一同の理、何名幾名一つの理である。何人の理を取り集める処、取り扱う処、何名の理ならん、をや一つの理に治めてやるも一つの理である。何名何人一つの心、一手、一手一つ/\の理に寄せてくれるよう。何名何人といえど治める。理は何名何人という。親と見立てば親の理は聞かねばどうもならん。一同こうと皆急き立てた処、前々旬を越さんとまで諭したる処、一同という心の理を計るから通らにゃなろうまい。どうしてみたという。もうこれ親という理立ったる処の理、立たん処の理、親という理を思やんすれば治められんではあろうまい。どれだけ早く何でもといえど、その場/\旬という、旬を越やさんとまで言うてある。一時ならんとは言わん。心を治め。急いた処が一時どうもなろうまい。遠く遥る/\道を運び、よう/\何箇年という。皆世界の理難しい。澄んだる理もあれば澄まん理もある。親と見れば治まらん事はあろうまい。よう伝えてくれ。旬より一つの理は治まりゃせん。旬が来ねば種は生えん。 さあ/\悠っくりの心を以て、悠っくりの理を治めてくれるがよい。』(M23.06.20) |
『さあ/\まあ/\一遍にすっきり洗い切り、一遍に掃除する訳に出けん。なれど自然に言うようにせにゃならん。通りよいように言うのに、通り難くいようにするのや。言い付けない事ばかりを考え、分からんなりではどうもならん。身上一つの理で分けねば分かりゃせん。言うた時だけの事ではどうもならん。いつ/\までの理を諭したで。元々一つの理心に分かりあっても、心に理が治まらねば同んなじ事やで。』(M23.06.20) |
立教百七十九年、教祖百三十年祭を勤めるに先立ち、思うところを述べて、全教“よふぼく”の仕切っての成人と一手一つの活動に資したい。 教祖は、世界一れつをたすけるために、“だめ”の教えを啓かれ、子供可愛い一杯の親心を以て、“たすけ一条”にお通りになり、五十年にわたる“ひながた”の道をお遺し下された。 この間、“たすけづとめ”を教え、万事の元を明かして道の次第を整えられ、明治二十年陰暦正月二十六日、かねて仰せの“つとめ”の実行を尚も急き込み、人々の成人を促して、現身(うつしみ)をかくされた。以来、「今から“たすけ”するのやで」とのお言葉通り、存命の理を以て、今も変わることなく、“世界たすけ”の先頭に立って私達をお導き下されている。 この限りない親心に仕切ってお応えすることこそ、教祖の年祭を勤める意義である。心新たに、“よふぼく”一人ひとりが立教の本旨を胸に刻み、“陽気ぐらし”世界建設の“よふぼく”としての自覚を高め、“ひながた”を目標に実働すべき旬である。 “陽気ぐらし”は、何よりも親神様の子供である人間が、互いにたすけ合って暮らす世の在り様である。また、 よくにきりないどろみづや こゝろすみきれごくらくや (十下り目 四ツ) 心さいすきやかすんた事ならば どんな事てもたの しみばかり (十四 50) と仰せられるように、“陽気ぐらし”は心を澄ます生き方でもある。 慎みを知らぬ欲望は、人をして道を誤らせ、争いを生み、遂には、世界の調和を乱し、その行く手を脅(おびや)かしかねない。我さえ良くばの風潮の強まりは、人と人との繋がりを一層弱め、家族の絆さえ危うい今日の世相である。まさに“陽気ぐらし”に背を向ける世の動きである。 心の拠(よ)り所を持たず、先の見えない不安を抱える人々に、真実の“をや”の思いを伝えて世界をたすけることは、この教えを奉じる者の務めである。 今こそ、道の子お互いは挙(こぞ)って立ち上がり、人々に、心を澄まし、たすけ合う生き方を提示して、世の立て替えに力を尽くすべき時である。 “よふぼく”は、教えを学び身につけ、日々実践して、土地所の成程の人となろう。天地抱き合わせの理を象(かたど)る夫婦をはじめ、己が家族の在り方を正し、たすけ合いを実行して、足元から“陽気ぐらし”の輪を広げよう。 また、教会に心を繋(つな)ぎ、足を運んで、その使命である“おつとめ”を勤めるとともに、会長を芯に、“陽気ぐらし”の手本たる姿を地域に映そう。 時として、親神様は子供の行く末を案じる上から、様々な“ふし”を以て心の入れ替えを促される。しかし、 とのよふな事をするのも月日にわ たすけたいとの一ちよはかりで (十二 78) と、全ては、ひたすら一れつ人間をたすけてやりたいとの親心からであると仰せられる。 あらゆる災厄や難渋は胸の掃除を求められ る親心の表れである。自らを省みることはもとより、見せられる事柄を通して、人だすけを促されていると受け止め、積極的な“おたすけ”を心掛けたい。また、常に人だすけを心掛けてこそ、世界“たすけ”を掲げる教えの信仰者であり、それは「人たすけたらわがみたすかる」と仰せられるように、自らが真にたすかる道でもある。 “おたすけ”は周囲に心を配ることから始まる。身上・事情に苦しむ人、悩む人があれば、先ずは、その治まりを願い、進んで声を掛け、“たすけ”の手を差し伸べよう。病む人には真実込めて“おさづけ”を取り次ぎ、悩める人の胸の内に耳を傾け、寄り添うとともに、“をや”の声を伝え、心の向きが変わるようにと導く。更には、共々に人だすけに向かうまでに丹精したい。 世の人々が元の親を知り、一れつ兄弟姉妹(きょうだい)の真実に目覚めて、互いに睦(むつ)み合い、たすけ合う神人和楽の陽気世界の実現を目指して、弛(たゆ)むことなく世界の“ふしん”を進めよう。 教祖百三十年祭へ向けての三年千日、教祖の道具衆たる“よふぼく”お互いが、その使命を自覚し、任務(つとめ)に邁進(まいしん)して、御存命の教祖にお喜び頂きたいと願ってやまない。 立教百七十五年十月二十六日 真柱 中 山 善 司 |
今年の2月くらいに、原因不明の40.3度の熱が出てから、ずっと体調不良で身体だ重だるくてまともに動けなくなっていました。 いちおう抗生剤で熱は下がったのですが、原因がわからないまま昨日まで来ました。 火曜日に町のお医者さんで血液検査と尿検査をしてもらったところ、血液検査はあまり悪くなかったようですが、尿が濁っていてバイキンがいっぱいいるとのことで抗生剤をもらいました。 抗生剤を飲んでもだんだん身体が重だるくなって来たので病院へ紹介状を書いてもらいました。 今のところはっきりどこが悪いのかよくわかりませんが、入院させていただくことになりました。(⌒-⌒; ) ひろ |