『さあ/\尋ねるであろう/\。尋ねん事にはどうもならん。さしづ通り皆心合わせてすれば、どんな自由もして見せる。聞いて居てどういう処も通るもさしづ以て。人間心以てする事は、思い/\の理を計ればどうもならん。日々皆出て来る。連れて戻る。何処からどうして計ろうか。前々くどう/\伝えてある。人間というは、どう計ればよかろうかと、日々の事情は一つに止まる。僅か日々年限という、日々年限もう僅かの内、どんな事をするのもしよいように成るのや。暑い時分には暑かったであろう、寒い時は寒かったであろう、まあと言う。麦という、むにして見せる、太白にして。もう暫くすれば分かって了うで。今一時二つの理、元一つは埋もれてある。今一時そこで難しい。一寸りきもつ余程のもの見澄まして、一寸々々暫くの間はじいとして置かねばならん。尋ねた通り十分のものなら、三四分まで通るなら、十分の一分の事情が通り難くい。年明けたら御陰や、国会々々やと言うて、いろ/\の説いろ/\の話、世界の道理であろう。前々に聞いたる道よりあろうまい。ぢばというは、三年十年やない。見澄ましてある。そこで言うた通りに成る。内々もさしづ通りより持たぬよう。中には勝手が悪い事もある。人間心取れば孝心でしたる事と言わん。その日から困らにゃならん。尋ねたらさしづ通り、心一つ、一手さしづ通り。心得のため理を諭そう。』(M23.06.25) |