京都には、もう一人いた。現役のとき東大を受験して落ち、京都で浪人生活をしていたN君。哲学の道沿い、鹿ヶ谷の疎水の流れの山側に、浪人生専門の下宿屋があった。一年契約で賄い付き、夜の門限は8時半だったか。門限破り3回で親元に連絡がいく。予備校と契約している一年ぽっきりの下宿屋さんが、いくつかあるらしいというのを初めて知った。「鹿ヶ谷」と聞くと、昔々はどんな所だろうと思うが、確かに吉田山の裏手、銀閣寺ができる更に300年程前の平安時代は、人里離れた寂しい所だったに違いない。清盛転覆を狙う密会が行われていたのもわからないではない。 N君は一浪して、みごと京大法学部に入学した。京福のチンチン電車、鞍馬方面の岩倉木野という駅から歩いて数分の農家の離れのような二階建て20部屋もあっただろうか、学生アパートにいた。携帯電話はおろか、まだ部屋に電話を引くことができない時代だったから、呼び出してもらったりしたが不在のことが多かった。それもそのはず、学生運動にのめり込んでいるらしいと聞き、一度京大の学生自治会の部屋に、夕方訪ねたことがある。暗い階段を下りて、地下の自治会室で「おう。ああ」と、立ち話をしたが、立て看板を作ったり、ビラを書いたりしている風だった。そんな事情で学生時代はあまり交流がなかったが、京大と京女の合同コンパというのに、一度連れて行ってもらったことがある。たまたまその日がコンパという日に遊びにいったのだ。東山七条の辺りの宴会席。偽京大生になって紛れ込み、それなりに京都の学生さんの宴会を味わった。 京都に出かけると、だいたいコースは決まっていた。阪急四条河原町から三条寺町。ここに「ギャラリー16」という現代美術専門の画廊があって、そこから木屋町の三条大橋のたもとに「ギャラリー射手座」橋を渡って岡崎の美術館。東山三条を蹴上方面に少し登ったところに「ギャラリー、ココ」それらをぐるっと回るのが大方の道順だった。画廊には、単なる貸し画廊とそれなりのポリシーをもって企画展を開催している画廊、日本画中心、版画中心とか、作品のジャンルで壁面の造りや照明や設備も違いがあって、いくつかの分類がある。 「ギャラリー16」今は京阪三条の北側のビルの中に移転しているが、大阪信濃橋画廊と並んで、関西の現代美術の作家を育てる感覚で活動している。どこも年配の女性が経営していた。 京大西部講堂にもよく行った。京大生協食堂の横。関西のアングラ劇団やブルースやロックのコンサート、自主上映映画も格安で入れたし、駐車場も使い放題。いつ壊れても不思議ない木造のお寺の講堂か体育館風。屋根瓦に手描きの「もこもこ雲」のペイントが何とも手作り風で、身近に感じる存在だった。中にはイスもなく、傾斜のあるコンクリートの床。場末の映画館のすえた匂いがしたし、まったく埃っぽい中で大音響のコンサート。缶ビールとポップコーン、タバコの煙、拍手と大歓声。若者の熱気が爆発していた。 ちょうど、関西の若者文化の興隆期だった。二条城の西、二筋目くらいに土蔵を改造した「拾得」という老舗のライブハウスがあって、若者文化を発信していたし、同じような造りの「磔磔」という新しい店が出来てそこにも出かけていった。四条河原町から下がって、細い路地を何度か曲がった仏光寺通り。最初は何と読むのかと思ったが、側までいって「たくたく」と読むらしいことがやっとわかった。演劇やブルース、ジャズ、ロック、詩の朗読、壁には版画や写真展をしていることもあって、アングラ文化の発表の場になっていた。 そういうライブハウスにも行ったがK君とよく行ったのは、三条から四条の間の木屋町界隈。京都の学生さんの定番コース。焼き鳥や串かつ屋、赤ちょうちんの店を2、3軒飲み歩いて帰る感じだったが、いつの頃か、その頃K君が付き合っていた京女の娘がアルバイトをしていると言うので、三条木屋町のクラブにも何度か行った。貧乏学生の僕らにはかなり場違いな感じの店だったが、閉店までいても、彼はそれなりの金額しか出していなかったように思う。小さな紙に金額のメモ書きを渡されるのだが、その娘は店でけっこう重宝がられる存在だったようで、民間企業はかなりの接待費が使える時代だったから、そのおこぼれを頂いていたらしい。そんな感じで勘定は何とも大雑把だった。そういう時は、決まっていくらかのタクシー代を渡されて、私だけ修学院の彼のアパートに帰って寝た。 同志社の体育の授業にもいったことがある。御所の北側、レンガ造りの建物が並ぶ光景は関西の私学という感じがした。図書館が新築されたばかりで、この図書館は人気があった。カフェも付いていてアカデミックな雰囲気だった。一般教養の体育の授業は、道を隔てた御所のグランド。教官もいなかったし、学生だけで二チームに分かれての野球。GパンにTシャツもいたし、必要単位のための消化授業という感じだった。側のベンチに座っていると、突然「タイム。代打」と K君が言って、私が打つ羽目になった。まあ、学生だけでやっているし、二浪していたK君の声は何の違和感もなかったのだろう。ショートゴロかそんなことになったが。まだ、のんびりした時代だった。 |