京都の市電が廃止されて、もう何年たつのだろう。20年近くにもなるのだろうか。京阪電車も地下に入って、出町柳まで延長された。加茂川の東側は川端通りとして市内の幹線道路になり、交通渋滞は大幅に解消された。 美術科の学生だった私は、京都によく行った。大きな展覧会は、東京上野の美術館のあとは、京都と相場が決まっていた。神戸(兵庫近代美術館)の場合もあったが、大阪にはそういう美術館がなかった。いまだにそれなりの美術展を開催できる府立美術館はないし、佐伯祐三記念館すらない。大阪は美術未開発国とでもいった感じが強い。そんなこともあって学生時代は月に一回か2ヶ月に一回は、京都に出かけるような感じだった。 高知や富山、金沢、広島、長崎など、まだ市電が残っている都市でもそうだが、市電の乗り場は、路面にコンクリートで造られた高さ50cmほどのプラットホーム「安全地帯」。道路の幅によって狭い所もあったし、カーブにそれが造られている場所もあって、そのすぐ横を相応のスピードで車が走り抜ける光景は、何とも安全地帯とは皮肉なものに思えた。 夏の日差しの暑い時や梅雨時、冬場の雪の日、風の強い日など、立っている方も電車の中から見ている方も何とも悲惨な風景に見えたこともあった。銀閣寺道から下がって白川通りの坂を登った辺りに車庫があって、停留所は錦林車庫前(きんりんしゃこまえ)と言った。コンクリートの円形の窪地に、それを取り囲むように放射状の線路があって、ミニSL操車場といった造り。市電廃止でバス路線になったが、名前はそのまま残っている。「名前だけ残しているのか」と思ったが、よく見ると何のことはない市バスの車庫になっただけのことだった。 京阪三条から山科、大津、石山寺方面への京阪電車の路線も三条通りをしばらく路面の上を走っていた。普通の電車が、そのまま路面を走るから、車輪の下から電車を目の前で見上げるような形になる。夜になると、黒っぽい巨大な質量の物質が電灯を灯して動いていく。その間を車やバイクが走り、その横を人が歩いている。こういう光景は、ちょっとした異次元空間をつくり出していた。明るい客車の中の顔は、銀河鉄道の乗客のようにも見えた。蹴上を過ぎると普通の電車軌道に戻るが、山科でまた路面になり大津で更に路面のところもある。この電車の運行は、はらはらドキドキなのだろうと思ったが、そう大きな事故があったとは聞いたことがない。 京都の市電といえば、京福電車もある。嵐山方面と鞍馬方面。この鞍馬に行く電車にはよく乗った。出町柳から、八瀬、鞍馬方面へ一両だけの電車。これこそチンチン電車という感じだった。屋根の上に斜めに一本棒が出ていて、これが架線に擦れながらつながって電力を受ける。終点の出町柳に到着すると、車掌さんが降りてきて、紐を引っ張ってぐるっと回転させ、棒の向きを反対にする。運転席が後ろと前の両方にあり、それが入れ替わって、そのまま進む。路面を走る所と軌道を走る所。修学院の辺りでは賑やかな交差点を進む所もあった。懐かしさというか何とも親しみを感じるチンチン電車という風情だった。今でもまだ健在らしい。 宮本武蔵が吉岡一門と決闘したことで有名な、一乗寺の駅もこの電車沿いにある。そこから奥は、宝ヶ池から、八瀬方面と鞍馬方面に分岐する。ここら辺りまで来ると、まるでのどかな田舎の電車という雰囲気になる。 |