私が氏神様に決めているその神社は、町中だが入口が細い路地に面しているので参拝客がそれほど多くない。私は、営業的ではない、その神社のつつましやかな宮司様と奥様が好きである。 ご長男は、町で一番大きな神社(営業に長けている)の神官として働きに出ている。おそらく父親が年をとれば後を継ぐのだろう。私とは面識のない長男は昨年結婚し、その奥さんが父親の神社へ手伝いに来るようになった。 この季節になると、毎年神社の奥さんが秋祭りの寄付金を集めにやってくる。今朝も、長男の奥さんを伴いやって来た。きっと若奥さんも義母の仕事を継ぐことになるのだろう。 ビルの1階で奥さんから“申し訳ないですが、秋祭りの寄付金を集めにきました。”と、声をかけられた。 “えーっ、どうして、申し訳ないのですか?”と聞き返した。 “どこへ行っても、みんさん…不景気や!不景気や! 言いはるから、悪いなーと、思って…。”と、おっしゃった。 神社の秋祭りの寄付と言えば、神様へのお供えみたいなものなのに、きっと多くの人が奥さんに愚痴を言い、前回より寄付の額を減らしたりしているに違いない。神様の仕事をしている人に肩身の狭い思いさせるのはいかがなものだろう。そんな人には神様のご利益はあたらないような気がするのだが…。 頭を下げながら集金してまわる義母の姿を、若奥さんはどのように見ているのだろう…? 若奥さんが、笑顔で集金できる世の中が、はやくやってくればいいのになぁーと、思った。 |
他人が考えた答えが 安易に転がっている世の中だ 少しは、自分で歩いて…探して…もがいて…選別して 自分で考えてみないとな… 痛い目にあう前に |
私の家には、それほど多くないが…、なんでも鑑定団に持っていくと希望額に一桁足らない金額を提示されそうなお宝がいくつかある。警察に届けていない刀や書画や茶道具等である。父が9年前に逝って、品の謂れを聞いていなかったから、其々何故手元に残っているのか理由が分からない。 おそらく祖父母が集めたものだと思うのだが、今では誰もその価値が分からない。 以前家の建て替えで、引っ越しするときに、父は少し身軽になろうと思い、骨董屋をよんで値踏みをしてもらった。なかにはそこそこの値段のついたものもあったが、ほとんどの品は掛け軸1本が500円とか言われ、それなら誰かにあげたほうが、まだましだと…結局処分し損ね多くの品が残って、捨てるに捨てられずにいる。 結局、自分に興味のない…また品物の謂れの分からないものは、なんの価値もないのだと思う。 つくづく、父が存命のうちに、いろいろ話を聞いておくべきだったと、今になって思う。 私自身にも宝物があって…、その一つはスウェーデンの作家が作ったガラス作品である。ただそれは、震災で粉々に割れてしまい、今から考えれば雑なことをしたと少し悔やまれるのだが…。破片を拾い集め自分でガラス専用接着材を買ってきて復元したサンドブラストの装飾の入ったガラスボウルだ。 こうなっては、どこに出してもガラクタ扱いに違いないのだが…、バブルの終わりかけた頃、東京の麻布工芸美術館に展示されていた作品を、作家に勧められて買い求めたもので、その時の思い出が詰まっいて、私にとっては大切な品となったのである。 さて、私が死んだら息子は、割れたガラスをどうするだろう? どうでもしてくれ! 謂れを教えても、どうせ割れたガラスやしな…。 私が生きている間の、私だけの宝物でいい。捨ててもいいよ…と、今のうちに言っておこう。 宝物って、そんなもんでいいと思う。 |
最近私は、よく“幸せそうだね。”と言われる。 確かに私の人生でなかで、今が一番幸せに違いない。 若い時からのコンプレックスを解消するため、今…多くの時間を費やしている。何年も行ったことのなかった美術館や映画館や温泉や海外旅行に頻繁に出かけるようになり、精神状態が安定している。 これも、6年前に突然大動脈が避け緊急手術をしたおかげに違いない。 ストレスは、人生を変えてしまうことを知った。 どんなに頑張っても倒れたら人生終わり…。すべてのものは一瞬にして崩れ去るということを知った。 入院するまでの数年間、道を歩いていて声をかけられないほど暗かったと言われた。その時には自分でストレスをコントロールできなかったから、溜まりに溜まって爆発したんだ。 もう少し生きてもいいんだ…と声が聞こえ、私は何者かに生かされていると感じた。そして、この世のすべ八百万の神に感謝するようになった。 今、もう少し生きていたいと思う。 まだ、この人生を楽しんでいたいと願う。 そう感じるようになると、もう人生終わってもいいよ…と声が聞こえるような気がする。 自分が、幸せだと、もっとみんなに伝えたい。 あなたは、幸せをそうだと、もっとみんなに言われたい。 これから先も、なにが起こるか分からない…と、肝に銘じて生きるから、もう少し生きていたい。 |
私が他人に対して手を差し伸べた時に、私が黙っていると…、そのことが当たり前のように何も言わずに通り過ぎる人がいる。気が付いていないのか、気が付いているけれど敢えて礼を言うのが面映ゆいのか、それともそれくらい当たり前だと思っているのか、いろいろあるだろうが…。 最近、私は黙っている人に対して、自分から手を差し伸べたと言う話題を敢えて持ちかけることにしている。 人生経験上、嫌味なく、しつこくなく…である。 黙って通り過ぎることは、決してそのひとのためにプラスにはならない…と、最近強く感じる。 人間というものは、思いを主張するだけでなく他人の思いを察し、感謝や謝罪の気持ちを、適当な表現方法で伝えなければならない生き物だ。 そのことに慣れていない人には、その人のためだと思って、少し時間を費やし考える時間をあげたほうが良い。 感謝や謝罪の気持ちがスムースにできれば、その人の人生を周囲の人が応援してくれる。 もう一度言うが、嫌味なく、しつこくなく…である。 しかし、よく考えてみると人生経験がなければ、やはり難しいかも知れない。 他人はあなたの気持ちを、そこまで察してくれないかもしれない。 今日の話を、あなたにおすすめすることは、止めておく。 |