二日間のイベントで、よくしゃべった。私は自分で言うのもなんだが、自分のことを寡黙だと思っているのだが、ともかくしゃべった。 最近行動をともにしている教授が、“英語がしゃべれるかどうかは、しゃべりたいことがあるかどうかだ。”だと言っていたが、それは私にとって日本語でも同じだと思う。私が二日間しゃべり続けたのは、伝えたいことがあったからだと思う。 ここ数日を経て、疲労を伴う達成感がある。こんな経験をもった後は人生が変わるかもしれない。 私はこれからも、しゃべり続けるのだろうか? 寡黙でいたいのだが…。 |
人には、いろいろな人格があり、危機に直面した時、死を目の前にした時、損得や愛欲が絡んだ時、プライドが傷ついた時、愛する者をまもる時等に、普段表れない人格がその人に宿ることがある。 だから、普段目にする友人とは違う人格を友人のなかに見た時、驚かないで…どちらの人格も同じ友人だと受け入れられるくらい客観的な接し方をしておいた方が良いような気がする。 決して、裏切られたと思ったり、買い被らないほうが良いように思う。 |
ギターの弦を張った。 久しぶりに弾くギターの音は少し…ぎこちない。 長い間乗っていなかった自転車に乗って、勘を取り戻すよりも時間がかかる。 しばらくすると指が動きはじめた。 それでも以前のようには運ばない。 弾くことに気をとられ、心が入って行かない。 弾かなかったブランクを埋めるのにどのくらいの時間が必要だろうか? 続けているものを止めるというハンディをもったのだと気がついた。 やりはじめたことは、できるなら続けたほうが良い。 自分の周囲の環境は変化しても、 続けられる環境を保つ努力は必要だと思う。 今から、また少し弾いてから仕事にもどることにしよう。 |
昨日、農学部の教授と共に、町のなかを歩いて植栽を見て回り、その途中、樹木の剪定の仕方を教えられた。 添え木で真っ直ぐ上に延びる道筋をつけ、余分な枝を切りながら芯になる幹に栄養がしっかり行きわたるようにする。そして伸びる枝、成長に必要ない枝を判別し剪定する…と言うことだ。 まるで、子供に対する親の接し方のようにも思える。 逞しく育つ雑草もいいけれど、できれば空に向って大木に育ってほしいというのが親の願いだ。 先生はまたこんなことも言った。‘切り方が分からなくても、切ってみたら、どう伸びるか分かってくるから、ともかくやってみたらいのよ。’ …そう…切ることも大切なのだ。それが親の務めだと思うのだ。 |
私が若かった頃、外国の一人旅をしたことが、美しさ、戦争、恐怖、危険、思いやり、どろどろしたもの、合理性、宗教…等、私のなかに自分の価値観を作り上げたと思っていた。 今日の午後…ふと思った。 それら価値観の確立以上に、自分が思ったこと、望んだことのために自分が動くという事を身に付けたことが大きな収穫だったと…。 自分が信じるもののために、自ら動くことは、人間としてとても大切なことだと痛感した。 |
建築物を見る時、私にとっての本物の建築素材は、天然木・自然石・金属・ガラス…である。そしてそのなかで厚さのあるものには重厚感を感じる。 近くで見たり、たたいてみたり、触ってみると、合板やシートでは味がない。私と同じ見方の整理の出来ていない人でも、本物の建物のなかに入れば、言葉にはならなくても本物の良さを感じると思う。 私も、黙っていても、そんな存在感のある人間になれたらいな…と、思う。 |
海外では自分が悪かったことを認めると、以後その時のことを、ずっと突っ込まれるから自分から謝らないと言う話を聞く。訴訟沙汰が多いから仕方ないことなのだろう。 今日は、その人自身にあきらかに責任があるのに謝らない人と話をした。パリの郊外で10年商売をしていた人である。これを外国流と言うのだろうか?経緯を整理しないで関係ないことを愚だ愚だ言い続けていた。 話をしていて、正直言ってしんどい。 誰かに謝ってほしい人はいっぱいいるのだろう。 私は自分に責任がなくても、頭を下げることがある。 私がごめんなさい…と言って、相手に息抜きをさせてあげないと、その人の悪い人相を見続けることになるから…。 訴えられない程度に、私はこれからも頭を下げて生きようと思う。 |
誰でも自分の能力を越えたことを成さねばならない時がある。 吐き気をもよおすほど脳と体が疲弊し、地に伏しそうになるとき、 筋肉が破断し、脳への血が逆流しそうになるとき、 新しい細胞が湧きだすように生まれ、眼光がいっそうの輝きを放ち、 次に向かう先が見えてくる。 目の前にやってくることを、不平を言わず黙々とこなす自分でいたい。 |
友が私から離れていく時… どうして、あいつは変わってしまったのだろう…とつぶやく。 ボーッと空を眺めていると、 いままで、あいつに自分をさらけ出していなかったことに気付く。 彼が変わる前に、私が変わったのかも知れないと気付く。 私は、本当の私を誰にも見せていないし、 私自身も本当の私を知らないのかも知れない。 そんなふうに、ときどき立ち止まりながら、私は生きていく。 |