昨日、契約上の話し合いで相手から厳しい現状を聞かされ、支払いを待ってほしいと懇願された。“自分に関係の深いグループ会社には理解してもらっているし、それにあなただから甘えさせてもらっている。”と言うものだから、“私はあなたのグループではないし、甘えられる関係だとは思っていない。”と、言い返した。 そして相手の提示した支払い計画書をつきかえし、再提出を促した。 話しが終わって思わずため息がでた。 それを聞き取った彼は“溜息つきはりましたね。私は絶対に溜息をつかんのですよ…。”と、私に言った。 あなたには言われたくない…と心のなかで呟いたが、高揚を押し殺して、最後は笑顔で彼を見送りながら、“溜息はつかないようにしよう。相手に心のなかを見透かされるのは嫌だし、あくまでも強気で諦めない姿勢の自分でいよう。”と思った。 他人の前で溜息をつくものではないと、彼から教わった。 |
私は普段ネットオークションに関わることがないから、3000円の本が10円で落札されることが、ごく普通のことと考えてよいものかどうか分からない。 私が30年前に作った画文集は、ときどきネットオークションに登場する。この本は私の手元にも数冊しかない。3000円という値付けで本屋に並んだことがあるが、今日ネットで見たら10円で落札されていた。喜んでよいものか悲しむべきものか思案する。 以前は作者サイン本でオークションに登場したこともある。その時は知人?の誰が手放したか気になったが知る由もない。 この次オークションで見つけたら、自分で落札しようと思う。その時の値段はいくらにしよう?5000円位にしてこれからのために高値の前例を作っておくか?それとも10円にしてみるか? 今、悩むことは止めておこう。幸せすぎて馬鹿みたい。 |
私が中学生の時に、どうして女性はスカートをはいているのか?と言う私の問いに、同じクラスの女子が“スラックスだと体のラインが見えすぎるからじゃない。”と、答えた。私はその答えに半信半疑で頷いた。 高校生になった時…、雌は子孫を残すため優秀な雄に目にとめてもらうために髪を長くし、化粧し、鮮やかな服を身にまとい目立とうとするのだと納得した。 さて私は、本当の答え、納得いく答えに未だに辿り着いていない。おそらくこの類の疑問は学問としての研究テーマなのだと思う。普段、一般人は立ち止まって考えてみる必要はない。 結婚人口の減少、結婚年齢の高齢化、夫婦別姓、同性婚、男女平等、少子化等が進んできたこの世の中…女性は髪をしなやかに長く伸ばし、化粧をして目元を大きく鼻を高く見せ、ミニスカートやタイトスカートで体のラインをくっきり見せる…この現象を、やはり、ますます競争の激化する伴侶探しの戦いに勝つための手段と考えるべきなのだろうか? 年齢を重ね、自分の雄としての視力が低下してきた今、女性の化粧や身なりが滑稽に見えてきた。 これを老化というのだろうか? |
今年…年賀状の便りのなかった男の奥さんから葉書が届いた。その男は私が社会人としての第一歩を踏み出した会社に入社した直後の2週間ほどいっしょに研修を受けた関係で、彼はその会社一筋に歩み、私は3年で辞めたから最初の研修以外の互いの記憶は無いと言っていい。それでも彼と私は年賀状だけのやりとりは続いていた。 ある時は、デッユセルドルフから、ある年はニューヨークから、またインドの都市から…毎年、家族の成長の記録を長文にしたためた年賀状が送られてきた。 葉書には、彼が1月12日に逝ったと書かれていた。昨年1月に胃癌の手術を受け、経過もよく退院後再び海外への単身赴任に就いたが11月に再発し、以後退院することがなかったと言う。葉書には、家族の写真とともに髪はなく痩せ衰え、それでも笑顔をみせる彼の写真が添えられていた。30数年ぶりに見る彼の姿である。発送日には2月16日 35回目の結婚記念日と記されていた。 悲しい知らせだ。近くの知人や親兄弟の死とは違う腹の底を付く痛みを感じる。 会わなくても、話をしなくても友という存在があるとしたら、彼が友であったと、今思う。 これから、奥様に手紙を書く。 なにを綴ればよいか、まだ分からない。 奥様の心が安らげる手紙を書いて送りたいと思う。 友の冥福を祈る。 |
今朝、電車の一番前の運転席のすぐ後ろで、前方が良く見える位置に立った。若い頃はこの立ち位置が好きで線路をボーっと眺めながら通勤したが、30才代から車通勤するようになったから、この場所に立つのは、かれこれ30数年ぶりである。 運転席の後ろから見える風景は自分に向かってくる。他の場所からは景色が流れているだけだから視界の質が大きく違う。 吊革を持って外を見ていると揺れの予測ができないから真っ直ぐに立っているのが困難だ。運転席の後ろから見ていると次のカーブが分かるから、横揺れに対し完璧な重心移動をして備えることができる。また運転手のブレーキのかけ方に注意していると縦揺れにも備えができる。 当然のこととは言うものの、運転席にはハンドルがない。バスや自家用車のように横道に逸れることがないから当たり前だが、平行線のうえで前進スピードの変化とブレーキだけの操作である。一見、単純過ぎる作業だが結構面白そうだ。電車でGO!と言うゲームがあったように思うが人気があるのも頷ける。 こんなことを考えながら電車に乗っていると退屈せずに目的の駅に着いた。 |
昨日、ランチにマダムの店に行った。他に客はおらず一人で寂しく食べていたら、一人の女性が入ってきて隣のテーブル席に座った。彼女はマダムの店の顧客で、独身を通し数年前に公共機関を定年退職した。今は一人住まいで若いときから続けているスキューバダイビングを楽しむ悠々自適の人生を送っている。一昨年の秋から半年間バリに部屋を借りダイビング三昧の生活をするほど、バリの海にはまっている。 この度、日本人女性7人が行方不明になり私の町の名もニュースに出てくるし、も思わず彼女の顔が思い浮かんだ。 私は軽く挨拶した後、聞こえてくる彼女とマダムの話を黙って聞いていた。 どこへ行っても訪ねられるのだろう…彼女の方から先にこの度の事件の話しが出た。事件現場には彼女も何度か潜ったことがあり、普段はそれほど危険な場所ではなく、それよりも5名が助けられたあたりの岩礁附近が危険で、波が止んだ時でないと近づけない難所だと話しているのが聞こえてきた。現地のインタビューに答えていた同じダイビングのガイドの日本人女性も知り合いだという事だから、彼女にとっては身をつまされる事件に違いないと推測された。 食事を終え、先に席を立ち“今日は、お顔が見ることができて良かったです。”と一言声をかけると、私の気持ちを察したのか“まぁー嬉しい。ありがとうございます。”と彼女は笑顔で答えた。 亡くなられた方のご冥福と、いまだ発見されていない方の無事を祈りたい。 |
自分と全く同じ人間…同じ顔・体格・性格・考え方・好み…なんてこの世にいない。 誰もが分かっているけれど、人は常に周囲に自分に近い存在を探して群れたがる。 その状態でもう一歩踏み込んで近づくと、思っていたのとは違うと感じ始めて、反動で自分との違いが目について、離れたくなる。 コミュニケ―ションをとると言うことは、単に相手と近づくことではない。自分と同じ人間なんてこの世にいる訳がないと言うことを前提に、近すぎず離れすぎず、その時々で、短時間で相手に応じた適当な距離をとる…とうことだと思う。 このことが互いに分かっていたら、離婚しなかったかも知れないと思うのだ。 原因はそれだけではないだろうが… 近い存在のはずだと思い込むと誤算を招く結果を生む。 |
私の知人から、私が管理するある建物の一部を使用したいと相談を受けた。私は名前をあげて、それら関係者に事前に相談するようにアドバイスをした。 その後知人から、関係者全員に説明を終え了解をもらったと聞いたもので安心していたら、当日になって、いったいなにをやっているのかと不信をいだく関係者がいると私の耳に入ってきた。知人を呼んで改めて状況を聞いてみると、みんなには以前にちゃんと話をしたと返ってきた。そこで確認のため私が名指しした関係者に直接話を聞いてみると、他の件での話はあったけれど、今回の件ではいつ何をするか全く聞いていなかったと答えた。 この度は大したすれ違いではないから、うっちゃっておいて良いものだが、これがプライドとか領土問題とか金銭にからむようなことだと話がこじれる。 言った・聞いていない…という全く違う答えだ。私は両者とも悪い人ではないのは知っているから、互いに相手を陥れようという気持ちのないのは分かる。考えると、どっちに問題があるのか追及するのも馬鹿らしく思えてきた。 少なくとも、これから自分が誰かになにかを話すときは、当たり前のことだけれど、よほど丁寧に話をするか、書面にして伝えようと思った。 他人は、私のいう事を半分くらいにしか理解せず、自分勝手に納得すると肝に銘じよう。 |