私の喋ったことに、即答で“よく分かります。”と答える人よりも、しばらく考えて“すいませんが…よく理解できないので、もう一度分かるように話してください。”と返してくる人を大切にしようと思った。 |
人はどうして死ぬのだろう?老化するのだろう? 重い病気にもかからず、事件や事故や戦争や災害にまきこまれずに生きてきても、体の組織が再生しなくなり死滅する‘人のもつ寿命’とうものがある。 経験を深め、思慮深くなり、何にでも対応でき、悟りの境地に入る…大抵の人はそこに到達する前に死を迎える。 そう考えると、人にとって、もがき苦しみ壁にぶち当たり挫折し再びチャレンジすることが生きる意味のように思えてくる。無知で、未熟で、周囲が見えずに、ただただがむしゃらに生きる人生を、もう一度生き直すために“死”というものがあるように思えてならない。 私の内から、若かかりし頃に経験した感動や怒りや恐怖や嗚咽や歓喜が遠のく。 私に確実に死が近づいていることを自覚する。 それが人として生まれた定めだと納得する。 |
自分の名前をローマ字で検索すると、アメリカにある田舎町の美術館の所蔵品目録のなかに私が30年前に制作した画文集のタイトルを見つけた。この秋アメリカに行き、その美術館を訪ねたが当時のことを知る人がおらず思っていた話もできずに少々残念な思いで館を後にした。気を取り直して図書館に画文集を寄贈してきたのだが、今…美術館にちゃんと保管管理されいたことが分かり嬉しい限りである。 ささやかにではあるが生きていて良かったと思う一瞬である。それにしても検索システムは凄いものだと思い知る。10年後に死んでなかったら、またあの町を訪ねてみたいと思うのだ。 |
今日、教授からメールが入っており、来年の正月はどこにも行く予定がないので、早いうちに打ち合わせしましょう…と言ってきた。私も正月だからと言って三が日を全て休むことなどないけれど、それでも毎年一人でゆっくり考え事する時間にあてていた。教授は“年末は○○○に終わり、年の初めに○○○で始まる…なんて素晴らしい年でしょう。”と、送ってきたが、自分の欲しい物を手に入れるための執念というか、思いの強さは70才を前にした女性のそれとは思えない。 私は来年も教授の勢いに引っ張られて過ごすことになりそうだ。 ともかくミーティングは4日にしましょう…と、返事するとしよう。 夢を実現する方法を知っている人と、お付き合できることの幸せを感じよう。 昨晩‘永遠の0’を観た。たっぷり泣かせてもらった。 |
私の知人に、普段約束の時間に必ずと言ってもいいほど遅れる人がいる。 “遅れないようにしようと思ったのだけれど、出がけに忘れ物に気が付いて取りに帰って間に合わなかった。”などと毎回弁解するのだが、今までそんな人だとうっちゃっておいていた。 ところがそんな人でも海外旅行の時には、他人より早くに集合場所にやってくる。やろうと思えばできるということは、まさに私に対する礼を軽く考えていて、優先順位を低く見ているに違いない。 こういう社会性の欠ける行いをしても、私のことを少々甘えても大丈夫な人だなんて思われていたりしたら、えらい迷惑だ。 今まで遅れてきても笑いながら“いいよ。”なんて言ってきたが、来年は一度厳しい言葉をかけてみようかと思う。 だって、これから長い付き合いをすることになるのだから…。 |
子どもの頃に、毎回宝くじを買っている近所のおばさんに、10枚の宝くじのなかから1枚選んでいいよ…と言われ選んだら、後日そのくじが100円当たっていた。そうしたら、おばさん100円くれる代わりに、もう一回このなかから選んでいいよ…と言われ、また1枚を手に入れた。 その券が10000円当たっていて現金をもらったと言う忘れられない記憶がある。要するに手に入れた1枚のくじが3回連続して当たっていたことになる。 昨年末に宝くじの販売店で夏のジャンボくじ10枚をみてもらったら、3300円になってもどってきた。そしてそのお金で年末ジャンボを買った。 昨日実家に行き恒例のビンゴ大会で特別賞の3000円の当たりくじ(すでに当たっているくじ)が手に入った。 年末に自分で買った宝くじはまだ確かめていない。 子供の頃を思い出す。大きな当たりが出る前には小さな当たりが続くと言う事実を…。 あの頃は10000円が大金だった。今の私が大金…と言うと1億円だろうか??? そんなことを考えていると、笑いがこみ上げてくる。 |
化粧は人前でするものではない…と、子供の頃に誰かが言っていた記憶があり、電車のなかで化粧する女性を見ると恥ずかしくないのかと感じるようになった。 それでも今では、時代が変わってきたのだから…と納得しているつもりだが、今朝電車のなかで前に座った女性はコンパクトを見ながらマスカラの手入れを丹念にし、一段落したらバッグから菓子パンを取り出し片手で食べ始め、空いているもう片方の手でメールをうち始めた。食べ終ったらすぐにまたルージュを引き、最後にカルピスウォーターを飲んで出て行った。 この様を盗み見て、苛立つ自分が情けないが、女性はこれじゃーあかんと思う。 まるで隙だらけである。女性に対して奥ゆかしさを望むのは私だけではなかろうが、下手に話すとセクハラと言われる時代のなかで、ただただ思いを押し殺すしかないと、他に注意を移そうとする自分がいた。 |
学生の頃、単位がとりやすいからと履修した哲学の授業…有名な教授だったけれど名前は覚えていない。その当時の講義の内容は全くと言っていいほど覚えていないが、唯一記憶する言葉がある。 “電車に乗った時に、新聞や小説を読むことは、世の中の状況を知るための貴重な時間を無駄にするようなものだ。電車のなかから見える季節、町ごとに変化する建物、時代を映す看板、女性の服の色やヘアスタイル…世の中の情報がいっぱいあるのだから、下を向いて文字なんか読まずに、ボーっと周囲を眺めていればいい…。” この言葉だけは鮮明に覚えている。 先生はもう亡くなってしまっただろうが、現代の電車に乗ったら何をおっしゃるだろう。 遠い国の景色や出来事、今まで知り得なかった学問に関しては多くの情報が入るようになったけれど、本来自然に感じていた周囲の変化には、みんな鈍感になってきたのではなかろうか? そんなことを考えながら、今朝も六甲の山並みを見ながら会社に向かった。 元旦から休みなく出勤している、貧乏性な私だ。 |